2012年1月29日 (日)

確かな自信

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 自信過剰は、道をあやまることもあって困りものですが、自信の無さは、それ以上に局面打開には遠く、元気の出ないのはどうしようもありません。いま、不意の困難にあっても、日本人は冷静で秩序がある、と世界から驚きと称賛の声がとどきました。言われて、びっくりです。

そう、日本人は、海の向こうと違って古くから識字率が高く、営々と築いてきた文化、礼節と寛容さに、もっと胸をはっていい、確かなものをもっていたのでした。ドラッカーは、「20世紀最大の功績は日本ではないか」と言っているのです。

思えば、アメリカ軍が進駐してきて以来、その憧れと喜びに反比例して、自信を無くしていったのが我々であったような気がします。自信を無くしたものほど、頑なです。
その最たるものが、一部の教組幹部であり、いくつかの新聞人、放送人ではなかったか、その感染の蔓延はいつまでも続くはずもない。いまや、心の中でうすうすと気づきつつあるような気がします。

 

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2012年1月14日 (土)

天下国家のこと

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 冷静な分析と判断は、客観的な見かたによって可能になる。そのような有能な資質をもって、国を思う人は、私欲をはなれ、大局的な見地と深い洞察によって事にあたる。そこには、勇気と責任感、潔さがある。なによりも清流のような高潔さと、この国に生まれた誇りがそれをさせる。

「民主主義」も「平和」という言葉さえない。そのような普遍的な言葉を、持ち出すまでもなく、その言葉の威を借る必要もないからです。日々の探求と思索を積み重ねを裏打ちに、ひたすら、この国の行く末を見ながら進むだけ。天下国家のことに邁進するとは、そういうことだと思います。
まして、「天下国家・・・」などと、恩を着せることなど、あるはずもないのです。

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2011年12月25日 (日)

上に立つ人の言葉

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頭の上を通り過ぎるのを待つ、これは理不尽な上司に怒られたときの処世術ですが、そういうとき、高圧的な態度ほどに、どこか理性に欠けるものがぼんやりと見えたりします。
先の日韓首脳会談は、そんな情景に見えたりしました。李明博大統領は、「誠意ある」とか、「真の勇気をもて」と自らを上位において日本を見下し、これは「法の前に国民の情緒、感情の問題だ」と中々言えないことをずばり、言われました。法を曲げてもと、国情そのままに論理より情を優先します。そして「大きな次元で決断せよ」と、人命に係るわけでもないのに、つまり、超法規的にお金を出してくれ、とおっしゃっているようです。はしたないと言えばはしたない、と写るのでした。

日本人の根底にあるものは、知らず知らずに今に息づいている、武士と町人の社会で培われた、修養と礼節、歩くべき正しい道とその誇り、恥を忍ぶ心、ではないかと思いますが、それがために、今の日本の立つ位置があると思います。大統領には、礼も誇りもない、かのように見え、その国を代表する者としての言葉とも思えませんでした。

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2011年12月18日 (日)

正当化意識の顛末

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60余年が過ぎた。いまなお、被害者意識が去らない人たちは、それがために自分は悪くないという思いは、強いに違いありません。いまや世代は移り、過ぎ去った事実は、都合のいいように歪められつつ、その場を見ぬままに風聞にまかせて、正当化意識だけが広がっていくのだろうか。

韓国や在日の人々の、その一部の人たちの姿でもあろうか、なぜに被害者意識を持ち続けられるのであろうか。それが自分達の優位性、はたまた溜飲を下げるためであるなら、時代おくれの自己満足でしかない、でありましょうに。いまだに事あるごとに、そのことを言いつのるのを見るにつけ、それは哀れもあわれ、その閉ざされた心を哀しむばかりです。

時を経ての被害者意識は、繰りごとでしかありません。それでいる限り、見えるはずのものも、見えはしないのです。売買によって成り立っていた公娼の記念碑を建てるにいたっては、もの言わぬ彼女らの心にある自尊をもきずつけずには、済むはずもありません。まして、少しく落ち着いて見れば、よって立つその国がらは、日本大使館の前という一事でもってしても、心なぐさめる碑のよすがを離れ、あからさまな挑発であって平静心を失ったも同然と見えます。

でも、もとはと言えば、日本人の加害者意識のなせるわざ、大かたの起こりは、事実、未確認のまま同情的かつ反日的な責任をもたないマスコミの言動、その場しのぎの曖昧な日本のお詫びによって、彼の人たちが、そうかと触発されるのもむべなるかなです。
それを引き起こしているわれらが同じ日本人の加害者意識は、かの被害者意識と同様に、相乗効果をともない、自他ともに疲弊し、健康体への道は遠のくばかりです。そういう意味では、そこまで思いこませてしまったのは、われらが中なる加害者意識から出たもの。だから、いつまで病み呆けていることもできないのであります。

 

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2011年12月13日 (火)

道を拓く一つの運動

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 人が声高に言うとき一つの考えに執着しますね、そういう思い込みはしばしば、自己完結形の単純理想になっているような気がしますが、新聞がそのようなものにとらわれてしまうと、多岐にわたる問題も単純化されてしまいます。単純ならざるものに、住民投票などを持ち出されては、危ういものを感じます。
きのう(10日)の朝日夕刊の1面トップは、「原発住民投票 さあ署名集め」、という見だし、自ら嬉々として、大衆をあおるような会心の見出しです。市民グループが東京と大阪で署名集めを始めたという記事でした。
その言い分は、原発の稼働を国や自治体の意思で決めるのは間違っている、市民にも関与する責任と権利がある。というもので、朝日が縷々と主張している脱原発の文字はありませんが、向かう方向は同じとみてとれます。いまや菅前首相の市民グループへの連携支援に関連して地に落ちた感のある、いわゆる市民運動は、いまはプロ市民と揶揄されるようでもあります。朝日は、石原都知事の記者会見で、この市民運動をどう思うかと質問します。それに答えて石原都知事は、

意見をのべて貰っているのは、結構なんじゃないですか。ただね、放射能という問題について、もうちょっと冷静になった方がいいと思ってね、繰り返して申すけれどもね、フランスという国はこういう事故を起こしたことはない。・・・これから先ね、どれだけのタイムスパンで日本はどれだけの経費、経済成長して、それなりに高い施設に高い補助を充実し直して、どれだけのお金がいるか、そういうことを考えた上で、それを支えるやっぱりエネルギーをどうやって補給するかっていう、設計図もなしにね、その時点で、まあ、ちょっとしたセンチメンタルともヒステリックとも思えるんだけれど、まあ、反対したらいいでしょう。・・・やっぱりね、これだけの成長するに、これから原発がいるか、いらないか、ということをはっきり、ものを言わないとね。・・・反対運動も結構でしょう。しかしその代わりに、自分たちの生活をどういふうに保たれるか、そいう設計図も何もないんじゃ、ま、どうぞ、やることはおやりになって結構ですよ。

と述べています。なるほどそうかと思います。住民投票といういわば刹那的な数を頼むのは、高度な判断がえられるわけもなく危うい気がしましたが、言われてみればそういう運動が起きれば、正しい議論を誘発するのも確かだろうと思えてきました。

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2011年11月24日 (木)

見失ったもの発見

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 ことさらに自らを貶める性癖は、われら日本人の美徳とする、内公的な冷静さと謙虚さ、に無縁ではないであろうと思いますが、それが故の無気力、価値観の喪失は、なんとかならないものだろうか、と常々思っていました。ところが、ブータンのワンチュク国王の国会での演説を聞き、それは、われらが見失っていたものが、見えたような気がします。おおよそつぎのような内容でした。

 日本が、アジアの近代化へと導くのが誇らしく、世界経済の最先端に躍り出たことによって、開発途上国地域に多くの希望を与えた。日本は、過去にもそして現在にも、技術と革新の力、勤勉さと伝統と価値において模範であり、リーダーにふさわしい。日本の文化と伝統、不朽の普遍性は、世界の他の国に見出すことは、ほぼ不可能です。
世界は、日本から大きな恩恵を受けるであろう。他の国々の模範となり、世界は大きな影響を受けるであろう。ブータンは人口約70万人のヒマラヤの国です。言葉では言い表せない強い精神的きずなによって、ブータンは、常に日本の友人であり続けます。

冷めた目で見るより、自信をもって、素直な気持ちで受け止めればいいと思います。

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2011年11月14日 (月)

批判にまさる言葉

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責任のない立場に立てば、言うは易く、火の粉が降りかかることもありませんが、他方、責任ある立場では、心の内を明かすこともできない、もどかしさがあります。
野田総理がかっての野党時代にチベット問題は、もう間違いなく国際的な問題だと、政府を追及していたことに対して、そのときの考えは今も変わりありませんか、といまの予算委員会で高市早苗さんがただしました。
野田総理は、チベットの問題は、中国の内政問題であるといういままでの政府の立場に変わりない、と答弁し、自らの見解としてはのべませんでした。
高市早苗さんは、「かなり、がっかりでございます」、と心情を述べながらも、批判の言葉はありませんでしたが、何だか、他の質問者にくらべてさわやかさが残りました。

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2011年10月26日 (水)

歴史ある美の礎

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 国としての意思を外にむかって言うとき、そこには国の美を礎石とする姿勢をもっていなければ、聞くものに響かないでありましょう。
その国の伝統文化や美意識に裏打ちされた品格と確かな礎によって成り立ってきたという矜持があれば、国際舞台において自ずと出てくる言葉は、自信に満ちて、信頼に足るものものとなるでありましょう。

韓国は、10月11日の国連総会第3委員会(人権)において、もはや半世紀以上も過ぎた、いわゆる慰安婦と呼ばれる人たちの救済を世界に呼びかけました。おそらく他の国では出てこないであろうことが、出てくるところに、かの国らしいと言えなくもないと思うのですが、その立ち位置は、どこにあるのだろうかと考えてしまいます。

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2011年10月10日 (月)

民主主義の多用

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公判での意見陳述、その後の記者会見と、小沢一郎被告は、意図して主張文を2回読み上げました。そこに出てきた言葉は、民主主義が8回、国家権力が7回でした。
元秘書らと合意の上で虚偽記載をしたかどうか、が問われていることに対して、多用されたこの言葉は、論点のすり替えに等しいです。

小沢氏個人の嫌疑に対して、国家権力と民主主義という言葉は、かけ離れています。国家権力の乱用がなく、民主主義は踏みにじられていない、と考えますが、もし多くの人がこのように信じるなら、小沢氏の発言は、正しくない論理展開を意図的に行ったものであり、詭弁に値します。

そのことによって自己有利に国民を欺こうとするなら、もはや国会議員の資格はないと思います。国民の負託を受けていない素人と、検察審査会を非難するけれども、秘書である身内の証言をもとに、証拠がなくば、裏で何をしてもよいなら、法は法として対処するしかないです。

それがための検察審査会であって、その議決は、法のもとに行なわれた正当なものと言えます。たとえ、後の結果として審決が否定されようとも、検察審査会のあり方とその議決は、民主主義そのものであることに、小沢氏は気づいていません。

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2011年9月30日 (金)

こころ乱れる

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科学者の実験によれば、植物にも意志や感情があるといわれています。植えられた花は、ただ花として楽しむのがいいです。そのままの姿が、見るものの心をいやしてくれます。
雨降りで、電車に乗ろうと思って改札を入ったら、通路の片側に西洋朝顔らしき、植木鉢が置いてありました。それには、名札がつけてあって「人権の花 ○○小学校」と書いてあります。小学生たちが育てているんだな、とは思いますが、校庭ではなく駅の中に置くということは、どういうことでしょうか、これが人権の花って、なに?意味不明です。

それで、検索してみたら法務省のホームページにありました。それによれば、人権の花運動というのがあって、もう28年余りも続いていることが分かりました。法務省が小学校にいろんな花の種を配って、みんなで花を育てて、情操を豊かにし、やさしい思いやりの心をもつ、人権思想を育むことを目的とした運動と書いてあります。

人の権利とは、こうだよ、と定めようもなく、性差やいじめなどからジャスミン革命まで多種多様であって、ひと言ではいい表せません。おとなでもうまく説明できないものを、小学生に「人権」という言葉を理解するのは、難しすぎます。

また、それとは別に、駅の中に置くというのは、どういう考えからきているのか、何か学校の作為、偽善の押しつけのように感じなくもないです。その朝顔は、ありもしない名前をつけられ、怒って花をつけません。花よりも名札が主役になっては、見るたびに、ひとのこころ乱されることはあっても、いやされることはないだろうと思います。

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