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2008年8月

2008年8月31日 (日)

原因があるはずです、心あたりはありませんか?

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「原因があるはずです、心あたりはありませんか?」


軽い腰の痛みを感じた、そのうちに直るだろうと思ったが、日がたつにつれ痛さが増し、寝返りも難しく、心配になってきた。
整形外科の先生のひと言は、意外な気がした。


原因?


考えてみれば原因が分かれば、解決は速い。
表面だけ見て直そうとすると、本質を見失い勝ちだ。

その場しのぎの適当なやり方は、副作用がでたり、再発することもあり、ときには間違った処置にもなりかねず、結局、効率がわるい。


ものごとの深層にある真因をつかめば、本質が見えてくる。つぎにとるべき方向がはっきりしてくる。



先生が言われるには、
「あなたは、私と同じで身体が硬い。」
「腹筋運動をやりなさい。私は毎日60回やっているよ」


ぼくは、原因とやるべきことを理解できた。

痛みはつづくものの、その一瞬から気が軽くなった。

 

 

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2008年8月24日 (日)

真剣さには美しさがあります

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 ドロップボールのつぎにくるライズボールをとらえた山田恵里選手のホームラン、上野由岐子投手の乱れないピッチング、みな一弾となって女子ソフトボールは、金メダルをとりました。

バッターボックスで膝を曲げてかまえる気迫、振り切るまでの一連の動作は、絵になっていました。

それは他の国の選手と違って、真剣そのもの、その美しいかたちに感動しました。

その成果は、相手チームの分析と研究、鍛錬にあったとメディアが伝えています。


 仕事もそうですが、いい仕事というのは、なし遂げる過程においても、でき映えにおいても、美しさと感動あると思います。

 

 

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2008年8月17日 (日)

夏のひと夜・多摩川

 

ひとすじに昇りゆく光跡は力強く

やがて空中で軽やかに炸裂する華やかさ

星くずのごと静かに降りゆきつつ

消え去るさまは、なんという潔さだろう。

たちこめる白煙もまた、

風にまかせ流れ去るのみ


夏のひととき、人みな暑さわすれる。

 

 

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2008年8月15日 (金)

断定的な言葉

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 上に立つものは強い実行意思が必用だ。はぎれのよい断定的な話し方は、聞くものに安心感を与え、同調を誘うようだ。

とかく、先生と呼ばれる人たちのコメントは、それが目立つように思う。

  「悪法を通すわけにはいかない。」

  「民意を無視している。」

など、短い言葉は聞くものにインパクトが強い。素直な目で見れば単純明快で、まったく正しいことを言っている。端的な表現は、記憶に残り易い。

しかしながら、これは素直さをなくした目でみると、曖昧なものがあるのではないかと思う、一見正しいように見えるが、その根拠は何だろうか、と自問するのである。

悪法である根拠は何を指すのか、民意とは何だろうか。

民意に沿うことは、民として喜ぶべきだが、仮にほんとうに民意があるとして、民意に沿うのが正しいかどうかは、客観的に見て疑問が残る。

なぜかと言えば、民意の示す方向というものは、必ずしも正解とは限らないことを、実感として歴史から学んだ。

 民意は、その結果に対して責任を持たない。

それは、一時的な感情に左右され易い多数決が、近視眼に陥りやすい危険性をもっていることに似ている。

民意などあてにならぬ、と思っているわけではない。・・ということでもないのだが、私も民意の中の一人として、賛否にかかわらずその責任から逃れ得るとは、思わない。

 ここで言いたいことは、民意がどうこう、と言うことではさらさらなくて、浅薄で思慮足らずな文で、自己矛盾を露呈しならも、 しらじらとして言いぬけようとしているのでも、ありません。

ただ、いたずらに断定的な話しかたに、惑わされたくないな、というひねれた考えが浮かんだのであります。

 

 

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2008年8月13日 (水)

井伊大老の遺したことば


上手の手から水がもれる、とはこのことでしょうか。

清澄な茶室で交わす言葉に、
井伊大老は、篤姫の中に何を見たのでしょうか。

 「公方様のおこころざしが分かりました」

と脈絡のないひと言を漏らします。

今、篤姫とふたりだけで話して、亡き公方様の考えを理解できた。ということでしょう。

後見職のことを頼まれていればこそ、思い至った感慨だったのでありましょうが、篤姫様は、その時はただ聞き流されたのであります。

 

 

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2008年8月10日 (日)

自我の甘えへの変節は、どこから・・

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 大家族の生活から小家族へ、個々への独立志向が進むあまり、もはや古びてしまった、義理と人情の世界から逃避することの気楽さを知った今、それは社会に対する責任の自覚を忘れていくように思います。


 人の嫌がることを言わない、というのは、確かに誰もがもっているマナーでは、あります。


仕事の話しなんですが、なぜ、突っ込んだ会話ができないのか、不思議に思うことがあります。


不具合の内容は聞いても、その原因を聞かれないのは、相手への思いやりかも知れませんが、その裏には、はじめからあきらめている様子、原因と責任の所在を曖昧し、同病相憐れむ風潮が見てとれます。


不具合がでるのは、仕事をしている証しであって、起きて当然、つぎの進歩への大事なトリガである筈ですが、あきらめの原因は、自己責任への認識の希薄化がすすんでいる表れの様な気がしています。


この自我の甘えへの変節は、一体どこからくるのか。思い当たるのは、人類が良かれと思って、突き進んできた文明の成せるわざ、楽な道への希求が、楽を手にした時から、もはや後戻りできないという、弱さを生む悪しき一面を露呈する結果の皮肉に気づきます。


こう考えること自体、実はその文明の中に逃げ込み、自己を大勢の中に埋没させる責任転嫁でしかないのですが、つまるところ、大勢の中のひとりではなく、すべては自己にあり、と気づいたとき、あきらめを追いやり、挑みつづけることができるのではないか、と思うのです。


とは言っても、理想を理解しつつ、現実に行動することは、たやすくありません。 その相克のはざ間でゆれながらも、感情のおもむくまま、より都合のいい方向へとさ迷っているのが、自分であることは分かっています。

 

 

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2008年8月 3日 (日)

打ち出し板金

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 打ち損じは許されない、真剣勝負、失敗すれば捨てるしかない。新幹線の先頭車両の流線形は、職人技の打ち出し板金で造られていた。

先日見たプロフェッショナル・仕事の流儀 板金職人・国村次郎さん

日本の誇る最新技術、新幹線は、古典的とも言える職人の技法で造られている、ということは新しい発見、驚きでした。機械は使わない、ハンマーだけの仕事、一見単調に見えてその実、思い通りにいかない作業、その面白さを見出すまでには、永い時間との戦い、ともすれば投げ出したくなることもあったかも知れません。

職人として技を究めるために大切なものは、何でしょうか?

「辛抱ですね。 いかに同じことを永くできるかということでしょう」

 この言葉に、仕事にかける青春と情熱、一つの仕事との出会いがその後の人生を深くし、人の感性と縁の不思議を思うのでした。

 

 

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