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2009年3月

2009年3月29日 (日)

拝啓 民主党様

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 何としても 「政権交代」 の実現を、という目的は分かりますが、その先は何がどのように変わるのかよく分かりません。 何をしようとするのか、どんなものが得られるのか、ぼくに分かるようにして欲しいと思います。

「国民の側に立った政治」 と言われましても、具体的には何をさすのでしょうか、マニフェストも読みましたが、問題点が共感として浮かんでこないので、いまひとつ理解が難しく、現状とあまり変わり映えがしない気がしますが、ほんとうに、より良い方向に前進するのですか。 それとも、郵政民営化、海自派遣、米軍移転問題などに反対してきたことに示されるように、元の道に戻る軌道修正をするのでしょうか。

「政権交代」 という目的に主眼をおいた戦い方は、国民の目線というより、議会人としての責任の共有という意識がうすく、ただ、敵を倒すためにだけに、大きなエネルギーを費やされてきたように思います。

それは、民主党が目指すという、議会制民主主義から離れていくようにも見えます。

他者の考えや、その成された結果について、責任のない立場に身をおけば、批判、攻撃は誰でもできます。 また、目的達成のために権利を優先し、義務を軽んずるのは、民主的ではありません。

国会に身をおく者の本分としての知力を高めれば、2大政党制も可能、戦わずして、自ずと勝てる方法があったのではないでしょうか。

 

 

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2009年3月22日 (日)

変えるなら、それもまた良し

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 永い目でみて、何かが変わり始めるのは、自然の流れだろうと思います。

現状に甘んじ、まずまずの歩みをしているものにとって、方向転換は、煩わしくもあり、目先の失うものを思うあまり、のちに得られるものも見えず、なぜなの? と、今のままにしがみつきたくもなります。

自分で考えたものでない限り、新しいやり方は受け入れ難い、ということもありますね。
でもふり返ってみれば、世のうつり変わりは、より良い方向に向かってきたのも事実。 それはそれで、そういうこともあるだろうと思えば納得がいきます。

それが日本人のもっている柔軟性であり、発展を遂げてきた原動力の一つだと思います。

 何かを変えようとするとき、人は常に行動的だった。 未知に魅かれる心があった。 そうして、求めている機能がうまく行かなくなれば、いつも進化の道をたどってきました。

形あるものも、いつの日か風化していきます。 いたずらに懐旧の念に浸っていては、老化はさけられません。

簡保の宿も中央郵便局の再開発も、民営化も、そして歌舞伎座もまた、いまこのとき、停滞している時ではないと思うのです。

 

 

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2009年3月15日 (日)

やがて元気になる

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 物事がうまく行かないのは、なぜだろうか。 同じような不具合が続けざまに起きた。 顧客からの再度のクレームによって、不良を知らされる最悪の事態だ。

欠かすことのできない確認の原則論も、仕事のやりがいとなる義務と権利を実践すべき役割論も、どこかへ吹っ飛んでしまったようだ。

不良障害に対してとる行動は、それぞれの言い訳と逃避への保身に走らせる魔物がとりついているようだ。

不良のでる要因は、親切過ぎるものづくりの情報提供が、考えることを奪ってしまったためか。
あるいは、世の不況の波、経済の停滞も、無縁ではないだろうと思う。

働く意欲の減退が、その仕事のプロとしての自負となるべき学習機能を低下させているのである。

信じて疑わない個を優先する責任感の欠如した政争を見ているうちに、知らず知らずに汚染される、ということもあるだろう。

しかし、すべての元凶は、個々にある。 弱くなった精神を立ち直すには、時間が必要だ。 誰しも失敗は好まない。 失敗がつぎの跳躍へ原動力となり、やがて元気になる。

 

 

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2009年3月 8日 (日)

時の流れと偶然ほど・・・

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 できあがったものに美しさがあるのは、そこまでの情熱と仕事に向かう姿勢に、流れるような美しい形があるからです。 技だけではないような気がします。

たとえば、職人と言われる人の仕事場を見ても、それを一つの構図としてみれば、やはり美しさがあります。

人はみな流れる川のように果てしない旅をしています。 たとえいつか、その命尽きるとも、人にけがれはありません。

映画「おくりびと」の全編に流れるチェロのメロディは、清流のようにすべてを流し去るのです。 ひとりの男の見たもの、心に信じたものは、その場の美しさと人の尊さであり、言葉にあらあすことができませんでした。

ですから愛する妻でさえ見ていないものは、分かってもらえないむなしさが伝わってきます。

でもある時、偶然の機会が訪れます。 彼女にも見えたのです。 彼女もその美しさに初めて気づいたのです、それは言葉では表せないものだったのです。

 自分の知らなかったことに、気づかせてくれる時の流れと偶然ほど、すばらしいものはないと思います。

 

 

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2009年3月 1日 (日)

過ちという言葉の重さ

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分かりやすいたとえは、説得力があります。
 「あのね、子供がしたことに対して親が責任をとるのは当然でしょ。・・・ 歴史的な問題の場合、上の世代の過ちに対して、下の世代の人たちが責任を取らなくちゃいけないの」 と、先生からメールをもらったという高校生のエッセイをMSNニュースで読みました。

この様に考えを単純化すると、理解し易く考えが固定化します。 しかし、この一見、正しく見える論理の対比には、無理があります。 前者は、まだ幼い子と親の間の個人的な道徳的観念ですね。 一方、後者は、一国の歩みの結果であって、先生が述べている通り ”歴史的問題”なのです。

そこには多面的に考える要素があり、それ相当の重みと背景があり、単純化はできません。 単純化したものと、単純化できないものは、同じに扱うことはできません。 ですから先生の言うように、前者が当然なら、後者も当然である。という図式は、成立しえないのです。

たぶん先生の思いこみなのでしょう。 ぼくの思いは、その論理の展開方法にあったのではありません。 歴史上にある人たちは、国民的興奮状態の中、生死を賭して使命感に燃えて、勇気をもって難局に立ち向かっていたはずです。

 ぼくには、そこに立てずして、軽々しく断定できないのです。 同じ国に生まれ、祖先あってこそ今ここにある、とを思えばその人たちの尊厳を傷つける言い方はできない、と思うのです。

ここで引用しました高校生のエッセーは、高校生エッセイコンテストで外務大臣奨励賞を受けられた饒平名(よへな)玲美 さんの「真の国際交流と平和」というものです。 その中で、「その言葉に百パーセント納得したと言ったらうそになる。・・・」と抑制して書かれています。

 

 

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