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2011年6月

2011年6月26日 (日)

絶え間ない妥協

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ひとりの人間としての自己の価値は、自らが愉快に生きようとする個性にあるのではないだろうか。その個性は社会の中で、他の個性と出あい、学び洗練されていくが、個性は現実との相克であり、ともすれば社会の仕打ちに破れ挫折することもあるが、それが後への成長につながる。

その人間として尊重されるべき個性には、2つのタイプがあるのではないだろうか。ひとつは、悩める人であり、もう一つは、悩まない人だ。悩める人は、あれかこれかと、いつも迷う。生き方としての一つの信念があるが、まわりの人の言うことにも耳をかたむけ考える。そこから、何とか結論を得ようと思いをめぐらし絶え間ない妥協をしながら歩む。

一方、悩まない人は、自己の中の正論、ができ上がっているから、ものごとに対してすぐに反応する。いつもはっきりした判断をするから、同調をよびやすい。しかし悩まない人の欠点は、どこか単細胞的であることだ。自らの愉悦のために、自分は間違っていないという信念にたよるあまり、制動がきかずカーブを曲がり切れず、乗客を乗せたまま脱輪することもありえる。

 

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2011年6月19日 (日)

アジアの模範を任じるなら

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歳月が流れても未知への探求は尽きない。熱き血潮の人生を青春という。安きにつかず立ち向かって行くのが青春。情熱を失えば、心はしぼむ。とサムエルウルマンは言っています。

いまや、われら日本人の心は冷静を通り過ぎて、冷めてしまったように見えます。何ものかを恐れるように、理は理として中露韓にはもの言わず、遠く国を離れて散った人々には、礼をのべることも憚るような空気は、生真面目過ぎるわれらが天のなせるわざか。冷めた目では、道はひらけるはずもなく、気の晴れようもない。

冷めたスープは、温め直すが一番。そんなとき石原都知事が掲げる東京五輪招致は、またとない機会と思います。
都民は望んでいるか、そんな金あれば・・・と、目先しか見えない消極論に走り、人心を冷ますに懸命な朝日新聞ではありますが、しかし、いつまでも冷めたままでは、道はひらけません。いまこそ熱きこころを取り戻すときでしょう。日本がアジアの模範を任じるなら、世界に示す絶好に機会でありましょう。
成るも成らぬも、その効果は計り知れないと思います。そんな無駄なこと・・・、と安きにつけば、もはや老いるのみであります。

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2011年6月 5日 (日)

巧妙に利用される間接的誘導

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素直さをなくしている。いま、必要なのはものごとを正しく見る素直な目ではないだろうか。みていると、どうもかたくなでありすぎる。鷹揚さはどこにもない、かたくなさだけが目立つ。それも、様々な角度があるものをみずからが正当と称し他を圧する。それをメディアの多くが利用しようとする姿は、異様であり素直さが見えない。

国歌斉唱の際の教員への起立命令は、憲法に違反しないという判決は、あたりまえのことではあるが、そもそもこのようなことを裁判であらそうこと事態がおかしい。
誰よりも日本を愛していると言いながら、日の丸を美しいと思わないその行動は、偏狭で被害妄想的に写り、虚偽と欺瞞を思わせるが、元教員である1市民が、思想、良心の自由を隠れみのにし、学校を利用しての社会運動化しているように見えることは、否めないと思う。

メディアもまたそれに同調し、自らの主張を広めようと巧妙にそれを利用する。そうした風潮から、知らず知らずわれらに物を言えない雰囲気に感染していくことが恐ろしい。実は、その教員もかって、何ものかに感化された病める被害者ではなかろうか。

法廷は、職務命令が思想、良心の自由を間接的に制約する面がある、とも述べて一部メディアを喜ばせたようだが、そうした個人への間接的制約のみならず、鬱屈した1市民の偏狭な社会運動が、メディアを通して一般市民の行動を間接的に誘導し、制約していく負の面の方が計り知れないことを思えば、憂いは深い。

少数者を保護するのが司法の大切な使命だ、という社説もあり巧妙に人心を惑わすが、司法は法に照らして判断すべきで、それで問題が解決しなければ、より良い方向への道を説くことも必要と思う。何よりも明日を担う生徒たちに偏狭を生まない教育現場が大切であろう、日本人が日本人としての自信をもたなくて、日本の再生はない、と思う。

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