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2011年12月

2011年12月25日 (日)

上に立つ人の言葉

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頭の上を通り過ぎるのを待つ、これは理不尽な上司に怒られたときの処世術ですが、そういうとき、高圧的な態度ほどに、どこか理性に欠けるものがぼんやりと見えたりします。
先の日韓首脳会談は、そんな情景に見えたりしました。李明博大統領は、「誠意ある」とか、「真の勇気をもて」と自らを上位において日本を見下し、これは「法の前に国民の情緒、感情の問題だ」と中々言えないことをずばり、言われました。法を曲げてもと、国情そのままに論理より情を優先します。そして「大きな次元で決断せよ」と、人命に係るわけでもないのに、つまり、超法規的にお金を出してくれ、とおっしゃっているようです。はしたないと言えばはしたない、と写るのでした。

日本人の根底にあるものは、知らず知らずに今に息づいている、武士と町人の社会で培われた、修養と礼節、歩くべき正しい道とその誇り、恥を忍ぶ心、ではないかと思いますが、それがために、今の日本の立つ位置があると思います。大統領には、礼も誇りもない、かのように見え、その国を代表する者としての言葉とも思えませんでした。

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2011年12月18日 (日)

正当化意識の顛末

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60余年が過ぎた。いまなお、被害者意識が去らない人たちは、それがために自分は悪くないという思いは、強いに違いありません。いまや世代は移り、過ぎ去った事実は、都合のいいように歪められつつ、その場を見ぬままに風聞にまかせて、正当化意識だけが広がっていくのだろうか。

韓国や在日の人々の、その一部の人たちの姿でもあろうか、なぜに被害者意識を持ち続けられるのであろうか。それが自分達の優位性、はたまた溜飲を下げるためであるなら、時代おくれの自己満足でしかない、でありましょうに。いまだに事あるごとに、そのことを言いつのるのを見るにつけ、それは哀れもあわれ、その閉ざされた心を哀しむばかりです。

時を経ての被害者意識は、繰りごとでしかありません。それでいる限り、見えるはずのものも、見えはしないのです。売買によって成り立っていた公娼の記念碑を建てるにいたっては、もの言わぬ彼女らの心にある自尊をもきずつけずには、済むはずもありません。まして、少しく落ち着いて見れば、よって立つその国がらは、日本大使館の前という一事でもってしても、心なぐさめる碑のよすがを離れ、あからさまな挑発であって平静心を失ったも同然と見えます。

でも、もとはと言えば、日本人の加害者意識のなせるわざ、大かたの起こりは、事実、未確認のまま同情的かつ反日的な責任をもたないマスコミの言動、その場しのぎの曖昧な日本のお詫びによって、彼の人たちが、そうかと触発されるのもむべなるかなです。
それを引き起こしているわれらが同じ日本人の加害者意識は、かの被害者意識と同様に、相乗効果をともない、自他ともに疲弊し、健康体への道は遠のくばかりです。そういう意味では、そこまで思いこませてしまったのは、われらが中なる加害者意識から出たもの。だから、いつまで病み呆けていることもできないのであります。

 

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2011年12月13日 (火)

道を拓く一つの運動

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 人が声高に言うとき一つの考えに執着しますね、そういう思い込みはしばしば、自己完結形の単純理想になっているような気がしますが、新聞がそのようなものにとらわれてしまうと、多岐にわたる問題も単純化されてしまいます。単純ならざるものに、住民投票などを持ち出されては、危ういものを感じます。
きのう(10日)の朝日夕刊の1面トップは、「原発住民投票 さあ署名集め」、という見だし、自ら嬉々として、大衆をあおるような会心の見出しです。市民グループが東京と大阪で署名集めを始めたという記事でした。
その言い分は、原発の稼働を国や自治体の意思で決めるのは間違っている、市民にも関与する責任と権利がある。というもので、朝日が縷々と主張している脱原発の文字はありませんが、向かう方向は同じとみてとれます。いまや菅前首相の市民グループへの連携支援に関連して地に落ちた感のある、いわゆる市民運動は、いまはプロ市民と揶揄されるようでもあります。朝日は、石原都知事の記者会見で、この市民運動をどう思うかと質問します。それに答えて石原都知事は、

意見をのべて貰っているのは、結構なんじゃないですか。ただね、放射能という問題について、もうちょっと冷静になった方がいいと思ってね、繰り返して申すけれどもね、フランスという国はこういう事故を起こしたことはない。・・・これから先ね、どれだけのタイムスパンで日本はどれだけの経費、経済成長して、それなりに高い施設に高い補助を充実し直して、どれだけのお金がいるか、そういうことを考えた上で、それを支えるやっぱりエネルギーをどうやって補給するかっていう、設計図もなしにね、その時点で、まあ、ちょっとしたセンチメンタルともヒステリックとも思えるんだけれど、まあ、反対したらいいでしょう。・・・やっぱりね、これだけの成長するに、これから原発がいるか、いらないか、ということをはっきり、ものを言わないとね。・・・反対運動も結構でしょう。しかしその代わりに、自分たちの生活をどういふうに保たれるか、そいう設計図も何もないんじゃ、ま、どうぞ、やることはおやりになって結構ですよ。

と述べています。なるほどそうかと思います。住民投票といういわば刹那的な数を頼むのは、高度な判断がえられるわけもなく危うい気がしましたが、言われてみればそういう運動が起きれば、正しい議論を誘発するのも確かだろうと思えてきました。

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