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2013年2月

2013年2月27日 (水)

表れでる弱さ

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身に覚えがあり保身に走れば、精神の安定はゆらぎ逆上することになる。取り乱し性急な反論は、説得性を失い、その狼狽ぶりは疑念を深くするものだった。結局、攻撃的な中国のもの言いというものは、弱さをあらわしている。

中国の報道官が「公然と隣国を歪曲して攻撃した」と言って怒ったのは、安部首相の、中国が領土紛争を起こす必要性があるという、一部ニュースに反発したのであったが、正しくは、反日、愛国教育が経済に悪影響を与える矛盾があり、大切なのは、そういう問題の根深さを認識することだ、というものだった。

そこで見えたのは、一応、良からぬ行為として彼らも認識しているのだったが、21世紀にもなって未だ、普遍的価値観を学び得ず、道義にもとる言動の数々、見苦しき悪口狼藉、裏返せばそこに弱さがあらわれる。

考えてもみよ、日本が何をしたというのだろうか。ふり返れば、感謝されることがあっても、恨まれる筋合いはない。中国にどう対応すべきか、という世論調査において、強硬な姿勢が42.8%だったと新聞が伝えた。

中国に対しては、ものを言わなくては、分かりはしない。彼らが逆上すればするほど、声が大きくなればなるほど、中国のその品位に照らして、実情があきらかになり、彼らは自ずと立場は不利になりつつある。

名誉と威信、先進国の正義と寛容をもって中国にもの言うべし、です。価値観の違いを漏出せしめ、非はいずれににあるか、世に問うべしです。恐れおののき、うやまってばかりでは、何も解決しないです。

 

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2013年2月20日 (水)

はびこる独善

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信じる道を一途にゆくというのは悪くないです。けれども、世の中それで押し通せるわけでもないです。過去から現在は事実、そこから先は、さまざまなことが起こり得る未知の世界です。信じるもの、それぞれの道は、異なる主観、あるいは感情によるところが大きいです。そういう、いろいろなものを、他に強いる行為は、傲岸不遜であり、無知な行為ということにもなりえます。

原発もオスプレイも反対、改憲も反対、近隣諸国は信頼すべし、それもいいでしょう。でも、多数の中の一部が、何が何でもいやだ、何とかせよ、というのであれば、それは多様性を認めないわがまま、ごり押しに近いです。ひとは誰しも独善にならざるをえませんが、独善は内心にとどまるべし、です。メディアその他の視界の狭い独善をもって、世の秩序を乱す弱体化への指向は、いま、ぬかるみに足をとられながら、這い上がろうとしているものにとって、迷惑なことです。

 

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2013年2月13日 (水)

安定剤という体内物質

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人はつねに精神の安定を求めて、さ迷い歩いている。漱石は、智に働けば角が立つ、とかく人の世は住みにくい、と言い。青春時代も、また、道に迷っているばかり、と言う。人やまわりのことを気にせずにはいられない。行き違いが予測できるからだ。

人は、だれでも精神の安定剤をもっているのではないだろうか。それは、相思相愛の感情であったり、あるいは人から信頼されるかどうか、広い心を持ちたいという心のゆとり、それらをよりどころとするのが安定剤ではないだろうか。安定剤をもっているかどうかがは、自己を抑制し、良し悪しの分別にあらわれる。おおむね先進国においては、安定剤が作用し、ある程度の普遍的な価値を共有している。

中国は、射撃用レーダーを日本の自衛艦に照準を合わせたことに対し、捏造だと非難するが、彼らは安定剤というものを持たないがゆえに見え透いたうそを言い、横暴に振舞うのではないだろうか。
かれら体内でその物質が分泌されなければ、自己中心に走り、精神の平衡を保つことはできない。その結果のなせるわざだ。彼らへの哀しみは、そこにある。しかしながら、少なからずわれらの体質の中にも生成物質の不足を思うのであります。

 

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2013年2月 4日 (月)

過ちを認めよという作為

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あと2年にして国破れて70年に届こうとしている。その間、喜びも悲しみも素直に受け入れる、日本人のその楽観性と実直さが生み出した世界への貢献は、大きいものがあります。さまざまな利便性であり、科学技術の進展への寄与があります。

また、道義的な心を有するとこも、大震災以来、世に認められてきました。その道義なるものにおく、価値観の違いは、国によって異なっています。ときには、道義心は、地に落ちることもあります。
ミャンマーの野党、シーチーさんを招き、日本が、”過ちを認めないことが過ち”という、言質を引き出して悦にいる韓国ではありますが、何が過ちであるのか、何を規範として過ちというのか定かならず。単なる娼館、娼婦との商取引の成立にもとづくものではなかったのか、そもそも、歴史にもとづく過ちを認めよと、多様な事象を排し一方的に他者に向っていう言葉ではないです。

そうでないと、その言葉は、自己に向かう刃にもなり得るのです。六十有余年にしてなお、欺瞞をもって貶めようとする悪意は、道義心のなさ非情さをも思わせます。平衡感覚を失ったバランスシートでものを考えるなら彼らの益するものは何もない。生産的なものはなにもないです。

 

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