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2013年2月 4日 (月)

過ちを認めよという作為

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あと2年にして国破れて70年に届こうとしている。その間、喜びも悲しみも素直に受け入れる、日本人のその楽観性と実直さが生み出した世界への貢献は、大きいものがあります。さまざまな利便性であり、科学技術の進展への寄与があります。

また、道義的な心を有するとこも、大震災以来、世に認められてきました。その道義なるものにおく、価値観の違いは、国によって異なっています。ときには、道義心は、地に落ちることもあります。
ミャンマーの野党、シーチーさんを招き、日本が、”過ちを認めないことが過ち”という、言質を引き出して悦にいる韓国ではありますが、何が過ちであるのか、何を規範として過ちというのか定かならず。単なる娼館、娼婦との商取引の成立にもとづくものではなかったのか、そもそも、歴史にもとづく過ちを認めよと、多様な事象を排し一方的に他者に向っていう言葉ではないです。

そうでないと、その言葉は、自己に向かう刃にもなり得るのです。六十有余年にしてなお、欺瞞をもって貶めようとする悪意は、道義心のなさ非情さをも思わせます。平衡感覚を失ったバランスシートでものを考えるなら彼らの益するものは何もない。生産的なものはなにもないです。

 

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