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2013年2月13日 (水)

安定剤という体内物質

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人はつねに精神の安定を求めて、さ迷い歩いている。漱石は、智に働けば角が立つ、とかく人の世は住みにくい、と言い。青春時代も、また、道に迷っているばかり、と言う。人やまわりのことを気にせずにはいられない。行き違いが予測できるからだ。

人は、だれでも精神の安定剤をもっているのではないだろうか。それは、相思相愛の感情であったり、あるいは人から信頼されるかどうか、広い心を持ちたいという心のゆとり、それらをよりどころとするのが安定剤ではないだろうか。安定剤をもっているかどうかがは、自己を抑制し、良し悪しの分別にあらわれる。おおむね先進国においては、安定剤が作用し、ある程度の普遍的な価値を共有している。

中国は、射撃用レーダーを日本の自衛艦に照準を合わせたことに対し、捏造だと非難するが、彼らは安定剤というものを持たないがゆえに見え透いたうそを言い、横暴に振舞うのではないだろうか。
かれら体内でその物質が分泌されなければ、自己中心に走り、精神の平衡を保つことはできない。その結果のなせるわざだ。彼らへの哀しみは、そこにある。しかしながら、少なからずわれらの体質の中にも生成物質の不足を思うのであります。

 

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