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2013年5月

2013年5月29日 (水)

日常生活を下地にしてでる言葉

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感性こそ人間の本質、もののあわれという言葉は、日本人のすぐれた感性を表しています。ものに感じる心、それは美を見出す感動と、時間の流れの中に抒情を誘い、記憶にとどめようようとします。それが源氏物語を代表とする日本の文芸に生きている。それを生んだのは、千年の歴史をもつ、平かなの創造ではないかと思います。ひらかなが、庶民の識字率を高めました。それは中国にもできなかった画期的なものでした。

そういう創造性を持つ精神風土は、芸術の進化やものづくりの得意な日本人の特質に生きている。もののあわれを感じる心が、水がしみこむように広がって日本の美意識を育ててきた。言葉づかいや礼節は、そこから生まれてきたと思います。

中国は、ことあるごとに尖閣は、「日本が盗んだ」、と直線的で野卑な言葉を使っていますが、品性と気位の無さはどうだろうか。言葉というものは、永く培われたの生活の中から出てくるもので、彼らの暮らしぶりからの写しであっても不思議ではない気がします。
虚言と打算に走れば、語るに落ちる中国、お里が知れたも同じ。もののあわれは、打算からは生まれないです。

 

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2013年5月22日 (水)

ひっくり返る真実

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よく見えない不確かなものは、そのままにした方がいい。「否定できない限り、活断層とみなす」、というのは、不確かな結論、と言えます。推論の上にたった、その断定は、ある希望的な予測の観点にも見え、不可能なものをも可能にすることもある、という極論であったり、言いぬけであるかも知れません。

不確定なものは、不確定に置くべきであり、立場を利用して断定し、他論を排してはいけないと思います。確定できないものは、自論も他論も不確定であり、それなりにそこに至った相反する確からしさというものは、双方ともに認められるべきです。

そもそも、数万年前の日本列島の地形の流動期における、未成熟の学問において、推論による断定は、過ちを含んでいます。かって、ある外務大臣は、
  「おっしゃるように、証拠は出ていないけれども、否定はできない」 と、
あたかも強制連行があった、と言っているに等しい答弁をしたけれども、見苦しいものでした。証拠が見つからないから、と言って、否定できないと言ってしまえば、真実がひっくり返ってしまう、のであります。

 

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2013年5月15日 (水)

劣化と変質のばらつき

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人民日報は、日本の敗戦により沖縄の領有権はなくなった、という論文を載せました。それに合わせて環球時報の社説は、日本が沖縄を不法占拠していることを、世界に周知させるべきだ、と言い、これに反対して、日本が最終的に中国と敵対する道を選んだなら、中国政府は、沖縄を未解決懸案として再提出しなければならない、と言っています。

「敵対するなら」 という言葉の横暴さは、問答無用と言う傲慢、それは根拠の無さを隠すためのものでしかないです。また、敵対するなら、再提出する、という言い方は、日本に責任転嫁する、いつものやり方です。要は、沖縄を独立国にせよ、と他国の主権を侵犯してはばからない。世界の秩序を破壊する、常任理事国にあるまじき下品さを表しています。

沖縄は、永く平穏にして、広く世に知れ渡った日本であって、それは国際法に照らすまでもなく道理にあっています。例によって中国のでたらめなつくり話ではありますが、在沖縄に限らず、日本の内なる反日勢力をかかえる弱点を、つかれたのは、間違いないと思います。

その反日的な考え方の人たちも、われら日本人であってみれば、目覚めることのない50年余来の劣化とその感化の哀しみは深い。誰のせいでもない。それが日本人自身のもって生まれた性のばらつきのせいであるなら、そのまん延を見ても、中韓をわらうに、わらえない。

飽食という余裕のなせるわざか、異分子が混じわり、変質したのか、しかしながら、いつまでもつづくはずがない。ここは踏ん張りどころ、次政権、そのまた次の政権へと続く、劣性挽回の醸成、アジアのリーダー的役割としての自覚が必要と思います。

 

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2013年5月 9日 (木)

危険という言葉の曖昧さ

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どちらかというと、こわもての、ある高名な評論家へのインタビュー記事で、概略つぎのように言っていました。

「憲法改正の条件を過半数にするのは、危険だと思う。危険な政権が生まれることもあるし、そもそも憲法は、国民を国家権力から守るの目的。憲法改正論は、国民を縛ったり、道徳を強調する面があるのも気になる。これは危険だと思う。」

危険という言葉を3回つかっています。これを読んで、第一に思うことは、危険と決めつけることができるのか、ということ、そのあいまいさと、その危険という言葉の独善と攻撃性が見え、もっと言い方はなかったのかと思います。

そして憲法の学問上の意味は別にして、第二に、憲法は国家権力から国民を守るのが目的だ、というのは、ちょっと違うんでないだろうか、ということです。

責務は同様に求められるわけで、一方通行であるはずはなく、国家も国民も同列であって、互いに遊離しては、国の形として意味をなしません。他の国は知らず、日本においては、国民が悪でなければ、国家も悪であるはずがありません。そうであれば、国家=国家権力という結びつけは、捨てた方がいい。なぜならば、国家は国民がつくったもの、と思うからです。

 

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