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2013年6月

2013年6月26日 (水)

あきらめるべきでない、何かを

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都議選が終わった。しょうがない、という言葉は、結果に失望したときにでる。サッカーのコンフェデ杯で、ブラジルに負けたとき、日本選手のひとりが、イタリア戦は 「切り替えていきたい」、と語ったという。そのイタリアにも負けて、別の選手がメキシコ戦に向けて、「切り替えていく」と言った。しょうがない、とは言っていませんが、暗にそれが表れています。サッカー日本代表の元監督イビチャ・オシムさんは、かつて、つぎのように言っていました。

 「日本人の言う、しようがない、と切り替え切り替え、が嫌いだ。」
 「ドイツ語では、どうしようもない、はあっても、しようがない、はない。」
 「あきらめるべきでない。何かをあきらめてしまう、いやな語感だ。」

なるほどそうかと思います。オシムさんの言っていることは、転んでもタダで起きるな、ということでしょうか。敗因分析をすれば、何かをつかみ、敵ながらあっぱれ、と見えてくる。そこから、でてくる言葉は違ってくるはず。
だが、その前に日本人は、言い訳を潔しとしない美意識が、動かしがたい現実を認めるとき、しょうがないなあ、つぎはうまくやろう、という精神の集中に走るきらいがある。しかし、あきらめるべきではない。何かがあるんだよ。とオシムさんは教えています。

それが何であるかは、言わない。たまたま、そうなったということはないんだよ、必然性があったはずだよ、と言外にほのめかす。それは試合の中から自分でつかむしかない。

それが見えるかどうかは、個々のテクニックの前に、見る目と、感性がいる。選手一人ひとりに、それが見えたとき、喜びとなり、力となる。選挙戦略だって同じ気がしますが。

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2013年6月19日 (水)

時の流れを想うとき

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遠い記憶には懐かしさがある。時代の流れの中で見てきたことが、ふと思い出されることがある。そうした過去の経験の積み重ねが現在に反映され、ものごとの源泉につながっているような気がします。昭和に唄われた童謡は、今はあまり聞かなくなりました。童謡というのは、十分に大人が聞いても心を豊かにしてくれます。

花嫁人形という歌は、色彩が鮮やかでいて、どこか哀感を帯び、謎めいています。花嫁御寮がなぜ泣くのか、有吉佐和子の小説「非色」の中に、その説明が語られています。
花嫁人形は、赤い千代紙の着物を着ているので、泣けばその千代紙がよごれたり、破れたりするので泣くに泣けないというのです。そこに、ひとりの乙女が花嫁になっていくことへの心象風景が重ねられています。ここまで来た、時の流れへの思慕の気持ちに涙する。そこに花嫁御寮は、綺麗な衣装を着て、泣きたくても泣くわけにいかない。誰にも分からないように涙せず、泣いている。ここにこそ、日本の情緒の本源である美がある。というのです。

金襴緞子の帯しめながら 花嫁御寮はなぜなくのだろ 文金島田に髪結いながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろ あねさんごっこの花嫁人形は 赤い鹿の子の振袖着てる 泣けば鹿の子のたもとがきれる 涙で鹿の子の赤い紅にじむ 泣くに泣かれぬ花嫁人形は 赤い鹿の子の千代紙衣装

過ぎ去った時間を、静かに振り返るとき、わけもなく清浄な気持ちになれるということは、あるだろうと思います。人の感性の内面に横たわるものとして、このように童謡といえども、ひとつの役目をもっていたと知るのであります。花嫁人形は、蕗谷虹児作 大正12年のことでした。

 

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2013年6月14日 (金)

そろそろ風の吹くころ

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頼りになる男というのは、そよ吹く風のように、さわやかさをもっている。泣きごとは言わない。ものごとに怖がらず、内に秘めた勇気をもっている。媚びること無く、易きにもつかず、まっすぐな気質をもっている。これを称して聡明な男の、男らしい青春、というものであるならば、誰もが心をよせることでしょう。しかし、そのような人は、少なくなりました。世は、さまざまに思惑をもって、ご機嫌取りに走り、醜態を演ずることもあります。

元官房長官という人の中国まで行って、言わずもがなの尖閣棚上げの同意があったと、ご注進におよぶ所業は、恐怖心にかられてのことであったか。氏は後に、大戦に発展するようなことがあってはならない、と語ったいう。それが氏の考えであるなら、氏ひとりの思いでしかないし、被害妄想的にも聞こえます。腹に一物ある中国、ひと前では面従腹背であってみれば、氏ひとりの力で叶う相手とも思えません。

理を見定めず、感情が先立つ様相は、もはや男らしさはどこへやら、世にそういう空気の蔓延を感じるのですが、深い考えとわきまえが、さわやかさを呼びます。そろそろ、そういう風が吹き始めて欲しいと思います。

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2013年6月 5日 (水)

道徳性の衝突

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過去の過ちを糾弾する有効期間はあるのだろうか。まさか千年ということはないはず。日々新たにしないで、何の楽しみぞ、希望も活力もでてくるはずもない。時代の流れを肌で感じることもできはしない。

往々にして、過ちは、結果論であって、後からなら何とでも言えるもの、それに、時とともに変化する価値観をあてはめるなど、あってよいものだろうか。最早、事件の現場に立つことかなわず、部外者が入り乱れるばかりです。

過ちに対する責任は、世代を越えて存続しえるのか。いったい、過ちだ、とする、前提条件は、成立しているのか。これらの異なる価値観、異なる道徳性に満ちた中に生きていれば、合意することは難しい。議論は不毛となって、非生産的であり、あらぬ方向に飛び火して衝突することにもなります。

先ごろ、安倍首相は、金正恩第一書記は、拉致のオペレーションには無関係、と述べています。実行犯ではない、と言っているのですが、この場合の、「無関係」という言葉は、耳あたらしいものでした。責任を引き継いでいない、とも取れるものでした。誰かに聞かせるために、用意された言葉だったかも知れません。余人には中々でてこない言葉ではありました。

 

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