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2013年6月 5日 (水)

道徳性の衝突

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過去の過ちを糾弾する有効期間はあるのだろうか。まさか千年ということはないはず。日々新たにしないで、何の楽しみぞ、希望も活力もでてくるはずもない。時代の流れを肌で感じることもできはしない。

往々にして、過ちは、結果論であって、後からなら何とでも言えるもの、それに、時とともに変化する価値観をあてはめるなど、あってよいものだろうか。最早、事件の現場に立つことかなわず、部外者が入り乱れるばかりです。

過ちに対する責任は、世代を越えて存続しえるのか。いったい、過ちだ、とする、前提条件は、成立しているのか。これらの異なる価値観、異なる道徳性に満ちた中に生きていれば、合意することは難しい。議論は不毛となって、非生産的であり、あらぬ方向に飛び火して衝突することにもなります。

先ごろ、安倍首相は、金正恩第一書記は、拉致のオペレーションには無関係、と述べています。実行犯ではない、と言っているのですが、この場合の、「無関係」という言葉は、耳あたらしいものでした。責任を引き継いでいない、とも取れるものでした。誰かに聞かせるために、用意された言葉だったかも知れません。余人には中々でてこない言葉ではありました。

 

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