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2013年6月26日 (水)

あきらめるべきでない、何かを

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都議選が終わった。しょうがない、という言葉は、結果に失望したときにでる。サッカーのコンフェデ杯で、ブラジルに負けたとき、日本選手のひとりが、イタリア戦は 「切り替えていきたい」、と語ったという。そのイタリアにも負けて、別の選手がメキシコ戦に向けて、「切り替えていく」と言った。しょうがない、とは言っていませんが、暗にそれが表れています。サッカー日本代表の元監督イビチャ・オシムさんは、かつて、つぎのように言っていました。

 「日本人の言う、しようがない、と切り替え切り替え、が嫌いだ。」
 「ドイツ語では、どうしようもない、はあっても、しようがない、はない。」
 「あきらめるべきでない。何かをあきらめてしまう、いやな語感だ。」

なるほどそうかと思います。オシムさんの言っていることは、転んでもタダで起きるな、ということでしょうか。敗因分析をすれば、何かをつかみ、敵ながらあっぱれ、と見えてくる。そこから、でてくる言葉は違ってくるはず。
だが、その前に日本人は、言い訳を潔しとしない美意識が、動かしがたい現実を認めるとき、しょうがないなあ、つぎはうまくやろう、という精神の集中に走るきらいがある。しかし、あきらめるべきではない。何かがあるんだよ。とオシムさんは教えています。

それが何であるかは、言わない。たまたま、そうなったということはないんだよ、必然性があったはずだよ、と言外にほのめかす。それは試合の中から自分でつかむしかない。

それが見えるかどうかは、個々のテクニックの前に、見る目と、感性がいる。選手一人ひとりに、それが見えたとき、喜びとなり、力となる。選挙戦略だって同じ気がしますが。

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