« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »

2013年8月

2013年8月28日 (水)

ゲンは思想で判断か、良心で判断か

130827a

もしかすると、これが正しいというものは、ないかも知れませんが、それを計る物差しは、いくつか存在するでしょう。はだしのゲンを、小中学校の図書室に置くかどうかは、曲折の末に元どうりにして、学校の判断にまかせることになったようです。生徒たちが自由に読めるようにするかどうかは、賛成派と反対派で、互いに判断基準、と思惑が異なり、その上、見えない威圧的な力関係も感じられます。

つまり、そこには是非を判断する共有の物差しはありません。日教組、朝日、毎日、などに見られる賛成派と、普通の市民感覚の反対派が対峙する形は、かたくなな思想性と、素朴な良心の衝突と見てとれるからです。小中学生に読ませるのであれば、ドキドキ、わくわくするような、そして感動と涙があって、何かを発見する喜び、それに共感を呼ぶものであってほしいです。それが、子供たちへの慈しみの大人の良心でありましょう。

ゲンには、そんなものを望むべくもない、面白いところはないということです。ひとりで怒っているマンガなって、底が浅くて見るに値しないものです。賛成派のように、平和と自由という名の隠れ蓑を着て、天皇制の否定と人身の弱体化をもくろむに、執心している人たちにとって、ゲンは、格好の教材に見えるのかも知れませんが、教師が意図して巧みに手引きしない限り、こどもたちの心を動かすような、後に残るものは何もないだろう、と思いますね。

 

| | トラックバック (0)

2013年8月21日 (水)

押し戻せよ感情の波

130817b

まるで、何かに憑かれて操られているのだろうか、終戦の日の野党(民主党、みんなの党、社民党、共産党、生活の党)、が出した談話は、いずれも先の戦争は過ちであり、悪いことであったという点にこり固まって、抜け出せないでいるものでした。

自分たちがしたわけでもないのに、罪悪感にさいなまれて、自己をなくしてさ迷うは、どうしたものかと思います。終戦の日は、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされています。社民党は唯一、「敗戦68年にあたって」と題したところに、その立ち位置はどこにあるのか、と疑いたくもなります。

終戦の日の意義は、反省や謝罪のためではなく、戦没者の追悼と、平和な秩序を求める、日本の役割を自覚することにある、と思います。歴史は、消し去ったり、書き換えできるものではないです。なぜなら、捏造や虚飾は脆く崩れやすいもの、そうしたことで起こる、信じるものを失う風潮の連鎖反応は、もう文明国として落伍していく道しかないからです。歴史は、あったここととして受け入れるべきものです。

あれから、遥かに半世紀がすぎ、世界の新しい秩序ができたのも、歩んだ歴史のなせる結果であり、その大きな流れの中で日本の存在は、アジアの諸地域の発展へと目ざめを誘い、その役割をはたしてきたのでした。いまや、期待される日本として、またその責任を果たすために、信じる道を歩もうとしています。歴史の中に溺れるさせようとする、そんな感情の波に押し流されるわけにはいかない、と思うのです。

 

| | トラックバック (0)

2013年8月13日 (火)

情報の品性の堕落

130812b

結局、人がまっすぐに歩いていられるのは、ひとから見られているという微かな予感があるからだ。多かれ少なかれ、まわりからの視線をなにも感じなかったら、これほどやる気の失せることはない。誰かの役に立つ、あるいは関心をもってもらえれば、ひそかに嬉しいにちがいない。

中でも、新聞人は、正確で公正な記事と、責任ある論評をだすことを、使命としているが、それに携わることを得て、絶大なる影響力を知れば、余人には分からぬ、無上の喜びがあるにちがいない。

しかし、ともすれば公正でいられるかどうかは、多分にあやしいものがある。おそらく、その果てることを知らない欲望の増大は、しばしば理性を超えてあらぬ独善に陥ることもあるだろう。独善は公正を超えて醜悪にもなりうる。

先のナチス関連発言の朝日の報道がそれだった。その報道は犯罪だという人もいれば、むべなるかなだ。曲解をもてあそび、2日間で9頁にわたる執拗な掲載は、良識を外れた攻撃性をもっていた。救いようのない愚人ぶりだった。海外への電話インタビューなど、日本を貶めようとして憚らないやり方は、いつものことながら、日本の新聞にあるまじき、恥ずべきものだった。

どこかの国の手口と同質、海外に籠絡の手をのばそうとする、感情そのままの噴出は、情念の一心同体を思わせて、自らの品性の堕落を示してあまりある。おおらかに、日本を応援しようという気は、さらさらないものだった。

 

| | トラックバック (0)

2013年8月 6日 (火)

歴史を冒涜するもの

130805a

責めに対してはだれにも言い分がある。それを知れば、多少とも、心広くなれるものを、「歴史を忘れたもの、」などと、一方的に押しつけることしか、知らないのも、すっかり飽きていやになってしまいますが、聞く耳もたなければ、話しにならないです。

阿川佐和子さんが、友達から、「あなた阿川佐和子の”聞く力”、読んだほうがいいよ」 といわれたという話しは、ほめ言葉の一面で、聞くことの難しさをあらわし、ユーモアがあっておかしいですが、韓国の歴史認識なるものも、あやしいです。

見たいものしか見ようとしない、内面に甘えが宿って、ゆがんだ歴史認識は正当性をもち得ないです。客観的な事実は無視し、都合のいいことは誇張や捏造したり、都合の悪いものは抹消したりする、そういう自分勝手さはあきれはてます。群盲象を評す、のたとえは、視野の狭いものが真実の多様性を見誤ることの教えていますが、一面性しか見ようとしないで、それを他に強要することは、尊大です。

だがその前に、歴史認識という言葉をかざして、誹謗・中傷は、国際社会の一員としての矜持を失った感情の暴走であることに、いつになったら気づくのか。常軌を逸した言動は、自らの位置を高めるに、何の役にも立ち得ないはずです。

もっとも、中韓首脳のいう歴史認識とは、日本=悪、という一点に固定化しようとする浅はかなもの、それに汲々としていることは明白です。70年以上も過ぎた現代において、歴史の名において、歴史を冒涜するものは明日は危うい。というのに。

 

| | トラックバック (0)

« 2013年7月 | トップページ | 2013年9月 »