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2013年9月

2013年9月25日 (水)

格差という平等

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子は親を選べないことを理由にして、婚外子に不利益を及ぼすことは許されない。と最高裁は言うけれど、その有無を言わせない威圧は、どこか、論理の照応に不適合がある気がする。遺産の分配において不利益というは、必ずしも適当ではなく、婚外子に損害が発生するものでもない、それぞれの実情による優位性によって法による差が生じるのであって、現状にあって被害を及ぼすものではないことを見ても、絶対的に不利益という言葉にあたらない。

一般に、人は自分が引き受けて行かなければならない立場によって、報酬に差がある、その差は、能力給という評価によって成り立っていることに照らしても、むしろ、差があることがお互いに平等であると、広く受け入れられている。

最高裁は、親を選べない、という望むべくもないことと差別という対比の単純な構造にして見せるが、確たる尺度を持たない平等性とは、論理をもって融和しないのであって、一見正しそうに見える論理展開は、はたしてそうかという思いは残る。

判決は、分け前を半分しか与えないのは、不平等である、ということであるから、婚外子が、やむなく和して家族の共同生活に加わることができなかったとき、それによって起きたであろう有形無形の不平等もまた、不利益ということになり、金銭に換算して認めなければならないことになるやも知れず、さらに家族の混乱をまねきかねない。最高裁は、合理的根拠は失われたと、一方の側にたってもの言うが、平衡感覚は保たれているのだろうか。

 

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2013年9月17日 (火)

月光の下に立てば

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冷々とした月の光は、しみ込むようにあたりを照らしています。穏やかにして乱反射することなく無彩色の世界をつくります。それは静かで清らかな空間が広がっていて、その明るさの中にも、そして、ほの暗さを宿す一隅さえも澄みきっているのです。清澄な濃淡の均衡は、世の不浄、無常なるものさえ無きがごとくに、ひとつの世界を映し出して、静寂でありながら、心おどる心地さえするのです。慈愛に満ちた月光は、そこにたたずむものに射して、影を落とします。そのわずかに過ぎる時間の中で、われに返ることを促しているのかも知れません。

一方で、世の信じることの難きがゆえに、声あらげるもの、疑念を持つらしき人たちは、気のせいか総じて相貌がしだいに歪んでゆくように見えます。それにくらべ、静かなるものは、生きいきとして美しいのです。人の良心というものは、ひとことでいうなら、美ということになるでしょうか。冴えわたる月光の下にたてば、誰しも内にある新たなる良心の存在に気づくことができるかも知れない、そんな気がするのでございます。

 

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2013年9月10日 (火)

平等至上という幻想がまねくもの

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平等とは、金銭ではなく、社会に許容されうる個人のふるまいをいうのではないか。婚外子の受け取る遺産が半分になるのは、不平等という最高裁の判決は、一方の側に立てば、心情的にそうかも知れないが、先にのべた意味でよくわからない。人それぞれに、責任がある。税金も異なるし、もらえる年金も異なる。マスメディアは、思うところを大きな声で、ものいうが、責任感は希薄、庶民にそのすべはない。ただ、それに流されるしかないという不平等感はある。それらは、おそらく改善する手段はない。となれば、国民は法のもとに平等とはいっても、幻想にすぎない。

平等は、ある程度の優位性にもとづいて、比例的に配分されるか、あるいは、努力の成果によって相応に報いられるという面がある。つまり、平等という利害は、何らかの責任や能力あるいは実情という階層構造のなかで解決されている。遺産というものは、個人のものであり、国が分配するものではないはず。

いや、それでも平等にするんだ、という気配の蔓延は、平等至上という権利をもとめて、自己の身の程と、その不運を他者のせいにするという、軟弱な風潮になるやも知れず。無闇に平等というに安住をもとめれば、人生の意欲は薄れてしまう。

それほどに平等という名のもとに最高裁の違憲という言葉は、インパクトがあった。高々と違憲というまでも及ばず、立法府にたいして法案の議論再考を促す道はなかったのか、と思う。

 

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2013年9月 4日 (水)

非礼な質問と論点のすり替え

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人間は弱いもの。いつも理性と私情のあいだで揺れ動いている。そのよい例だった。先ごろ国連の藩基文事務総長は、韓国において、日本の憲法改正に対する国連の立場を問われて、”日本は深く自省するように”、と的はずれもいいところ、とんちんかんな応えで日本を批判しました。公平無私であるべき立場を越え、利己的に私情をだして論点をすり替えました。

答えるべきは、憲法はその国の主権にして、国連は関与する権能を持たない。ではなかったか。記者のその質問は、「北東アジアの国々が憂慮している日本政府の平和憲法改正の動きに対する国連の立場はどうか?」、というものでしたが、はたしてどの国が、どのように憂慮しているのか、それは正当性をもっているのか、定かならず、責任回避するようにあやふやにして、北東アジアの国々の憂慮というは、思いあがりにして非礼な質問でした。

自らの改憲に否定的な言質を引き出そうとする日本の新聞が言わせているのか、と一瞬頭をよぎりましたが、憲法は、成熟した自国がどうあるべきかの規範、他国の関与、指示は無用です。

外交的な約束を反故にするような、法治の未成熟な国に心配してもらうには及ばないというものです。普通に考えれば、よその国の憲法に敬意をもつことをすればこそ、口をはさむなど、思いもよらないことです。

 

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