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2013年9月10日 (火)

平等至上という幻想がまねくもの

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平等とは、金銭ではなく、社会に許容されうる個人のふるまいをいうのではないか。婚外子の受け取る遺産が半分になるのは、不平等という最高裁の判決は、一方の側に立てば、心情的にそうかも知れないが、先にのべた意味でよくわからない。人それぞれに、責任がある。税金も異なるし、もらえる年金も異なる。マスメディアは、思うところを大きな声で、ものいうが、責任感は希薄、庶民にそのすべはない。ただ、それに流されるしかないという不平等感はある。それらは、おそらく改善する手段はない。となれば、国民は法のもとに平等とはいっても、幻想にすぎない。

平等は、ある程度の優位性にもとづいて、比例的に配分されるか、あるいは、努力の成果によって相応に報いられるという面がある。つまり、平等という利害は、何らかの責任や能力あるいは実情という階層構造のなかで解決されている。遺産というものは、個人のものであり、国が分配するものではないはず。

いや、それでも平等にするんだ、という気配の蔓延は、平等至上という権利をもとめて、自己の身の程と、その不運を他者のせいにするという、軟弱な風潮になるやも知れず。無闇に平等というに安住をもとめれば、人生の意欲は薄れてしまう。

それほどに平等という名のもとに最高裁の違憲という言葉は、インパクトがあった。高々と違憲というまでも及ばず、立法府にたいして法案の議論再考を促す道はなかったのか、と思う。

 

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