« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »

2013年10月

2013年10月30日 (水)

多様性の切断は時間の浪費

131029a

信念の正邪ほど、あやふやなものはない。しかし、世の中には絶対的自信に満ちた人もすくなくないです。聞けば、なるほどそうかと思うこともよくあること。信じたものは、不甲斐なさにたえず揺れ動きます。一体いずれがほんとうなのか、判断がつかず結局は永い時間の中で、どういうことに落ち着くのか、あるいは何が起きるのか、と消極的な庶民であってみれば、きわめて効率の悪い学習方法ではあります。

けれども、良かれと思ってしたことが、間違った結果をもたらしたとき、その根本的な欠陥は、自分たちのやっていることは、絶対に正しいと信じきっているということに尽きるでしょう。その元凶は何かといえば、間違いないという信念であった、それが人間の限界というものかも知れません。そこではじめて、実は誤解であった。失敗であった。という壮大なる浪費に気づかされます。

それでも、やっと気づいたということは収穫になります。失敗によって、もたされたものは大きいです。日本はイエスとノーがはっきりしない、といわれますが、その曖昧さは、多様な考えを互いに認めるという、協調の精神が根づいているためでしょう。

一方で、これこそが正当だ、というかたくな理念に基づいて、国民を教化、啓発につとめる一元的な統一志向から、離れられないものもあります。そこには、曖昧さを是とする、あらゆるものを受け入れるという概念は、生まれないです。

だから異なる立場や、異なる観点に見えている景色が見えるはずもない。隠蔽と強調の教育恐るべしです。神ならぬ人に完璧はなく、みな不完全なものであってみれば、多様な思考から切断されれば、時間を浪費するばかり、いよいよ、時代の流れはよどみ、いつまでも遅々として進みはしないだろうと思いますね。

 

| | トラックバック (0)

2013年10月23日 (水)

策略の回避か、抗戦か

131022a

悪意というものは、邪悪から起こり策略をもってなし、結果にその欲望を得ようとする。靖国参拝に対する中韓の批判は、日本は侵略を正当化しようとしている、そしていまも侵略の意思を隠そうとしない、というものですが、なんという論理の飛躍でしょうか。

日本国内における参拝という枝葉末節にかかわる曲解は、文明国なら出てこないでありましょうに、臆面もなく出てくるところは、理解し難いものがあります。それは、おそらく、かの国の風土からくる精神の平衡をもとめて、彼らが悪の一面を演じているような気もします。そうであるなら、原因はかれらにあり、われらにはない、ということにもなります。

彼らの靖国反対という口実は、言っていることの裏腹であって、日本人の心につけ入って、参拝という行動の好機到来を虎視たんたんとうかがっている。中韓のそのねらいは、日本=悪、という図式を日本人のみならず、世界に植えつけようとする、悪意から発するもの。だまされてはいけない。

あれから六十余年、先進国の価値観の中でともに歩んできた日本ですが、かれらにそんなものは見えてこないです。一方的に決めつける、侵略という、いとも簡単な一語をもって、世に訴えるようとする策略は、侵略という文字に照らしても、事実を隠して、見たいものしか見ようとしない、浅はかなものですが、その策略にひっかかれば、あたかも真実のように、世の善意という抜け道から、侵略がにじみでる危険性をはらんでいます。

策略を回避するか、それともそれに飛び込んで、返り討ちにできるかは、どちらも難しいです。

けれども、いまに至って、侵略という跡形はどこにも残らず、日本のなしたことは、列強からの侵略の阻止と開放への端緒となり、また、そこから彼らの発展につながって、今にあるのは、以後の日本の後押しの寄与が少なくなかった。それらは、知る人ぞ知る事実なり、です。

 

| | トラックバック (0)

2013年10月16日 (水)

軋轢の原因は内にある

131015a

必ずしも、健全な体に健全な精神が宿るとは限らず、それがぶつかりに合うとき、互いの苦労は尽きないものがあります。国と国の仲が、うまくいかないということは、双方の思い違いもありますが、政治や利害を越えて、人間性にかかわっている、ということもあるでしょう。端的に言ってみれば、自分の持っていないものへの、ねたましさ、というものがあるのではないかと思います。

日本は、うそや、いいかげんなところがなく、まじめ過ぎるということが分かってきた、他の国の人からみれば、それが幼稚さに映り、鼻持ちならない、何でそうなんだ、ということになるかも知れません。それぞれの思いがあって、他者を健全な精神ではない、と非難することはできないのですが、少なくとも、真善美に照らして、人の営みの源泉とするなら、そういう生き方の、ひたむきなまじめさ、というものは健全な精神に値するのではないか、そんな気がしています。

動かし難いものついて、真実を見る美しさ、そういうものをどこかへ押しやってしまって、必死になって他者に向かうように、教導されてきた感情からくる軋轢の原因は、自らの内にあるのであって、他者を攻撃するのは、間違っていると思いますね。

春待坂春秋メモリーボード

| | トラックバック (0)

2013年10月 9日 (水)

歴史を無駄にする愚かさ

131007

自分で分かるということは、むずかしい。分かったつもりでも、よく分かっていなかった、ということはよくあります。韓国のすることは、普通の常識では理解できないものがあります。その異質な言動のたびに、いつも心を乱されます。それは、総じて日本に対して命令調でなされ、事実をまげる謂われない中傷であります。朴槿恵大統領が、勇気を持て、などと見下していうは、礼を失しています。黙殺すれども憤怒抑えがたいものがあります。

文明国では、互いに人の存在を認めるところに、長幼、身分を離れて、礼儀というものがありますが、韓国ではどうもそうではないらしい。彼の国の礼というものは、下から上への礼はあっても、上から下への礼はない。その上下の秩序の維持することが礼であって、儒教の悪しきなごりでしょうか。つまり、正義は問わずつねに強者、勝ったものが正しい、意にそわない言論を抹殺するような、いわばおごりの文化が蔓延している。感情と欲望のままに、自省を知らずいつのまにか自己の姿を見失っている。

古くは日本を倭国とよぶ因習がもたらすものか、日本への品位のない口撃は、彼らからすれば、上から下への礼にかなっていると考えるなら、認識はずれも甚だしいです。過去も現在も、日本の文化の程度も果たしている世界への貢献度においても、韓国の比ではないものがあります。彼らにおいては、歴史が流れても、自らを高める指導的な知識人層の輩出を、民意が排斥するところに、遅々として成長しえない原因があるのかも知れません。

日本が、あるべき正しい秩序を、かの国に見せようとした一時代は、明るいきざしでありましたが、それさえも歴史の建て直しと称して、排斥に走る思考は、旧き、間違った礼のなせるわざか。
それとも、もの見る目の貧しさか、歴史を無駄にやり過ごす愚かさか。自分で分かろうとする努力には、ほど遠いものがあると思います。

 

| | トラックバック (0)

2013年10月 1日 (火)

強く生きることの清しさ・・少女の物語

131001a

戦乱における立場の逆転は、いままで見えなかった人の心の、強さと弱さを際立たせる。恐怖と危機の過酷な逆境にあって、朝鮮から脱出する少女は、爆撃に負傷しながらも、母と姉の3人ともに内地にたどり着く、その自伝物語、「竹林はるか遠く」 は、読むものに生きるということの感動と清しさを与えてくれる。

かの地で、勝者と錯覚した者たちは、暴徒と化し、卑しさに落ちる人間の、弱さをみせるが、母と子らは、数奇な運命の糸に操られながらもその体験は、人としての強さを、確かなものにしていった。経験なければ、それを知るものは誰もいない。母が肌身離さず持つ懐剣は、日本人の真っ直ぐに生きようとする気概を象徴していた。が、京都駅に身を落ち着けたものの、母は逝き、子らはそこに残された。母の遺志は、子らに立派な教育を受けさせることだった。

少女は、身なりをあらためることを得ず、鉛筆もノートにも不自由し、学校からも、上流家庭の生徒たちからも偏見の目で見られながら、強く生きていく。日々ままならぬ暮らしの中で、新年に少女の用意したささやかな一杯のお茶に、姉妹で涙しながら、新鮮な喜びを味わっている。女学校では、ぼろは着ていても成績では、負けはしなかった。

この物語は、少女、擁子の目を通して語られており、その純粋な感情表現にとどまるところが、アメリカの多くの中学校の教材に採用されている理由だろうと思う。そこには、深く心に残り、勇気づけられるものがある。背景は戦後の乱れの中にあるが、それは主題ではない。けがれのない少女の目になって読めば、冷たくも爽やかなものがいつも思い出される。

 

| | トラックバック (0)

« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »