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2013年10月23日 (水)

策略の回避か、抗戦か

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悪意というものは、邪悪から起こり策略をもってなし、結果にその欲望を得ようとする。靖国参拝に対する中韓の批判は、日本は侵略を正当化しようとしている、そしていまも侵略の意思を隠そうとしない、というものですが、なんという論理の飛躍でしょうか。

日本国内における参拝という枝葉末節にかかわる曲解は、文明国なら出てこないでありましょうに、臆面もなく出てくるところは、理解し難いものがあります。それは、おそらく、かの国の風土からくる精神の平衡をもとめて、彼らが悪の一面を演じているような気もします。そうであるなら、原因はかれらにあり、われらにはない、ということにもなります。

彼らの靖国反対という口実は、言っていることの裏腹であって、日本人の心につけ入って、参拝という行動の好機到来を虎視たんたんとうかがっている。中韓のそのねらいは、日本=悪、という図式を日本人のみならず、世界に植えつけようとする、悪意から発するもの。だまされてはいけない。

あれから六十余年、先進国の価値観の中でともに歩んできた日本ですが、かれらにそんなものは見えてこないです。一方的に決めつける、侵略という、いとも簡単な一語をもって、世に訴えるようとする策略は、侵略という文字に照らしても、事実を隠して、見たいものしか見ようとしない、浅はかなものですが、その策略にひっかかれば、あたかも真実のように、世の善意という抜け道から、侵略がにじみでる危険性をはらんでいます。

策略を回避するか、それともそれに飛び込んで、返り討ちにできるかは、どちらも難しいです。

けれども、いまに至って、侵略という跡形はどこにも残らず、日本のなしたことは、列強からの侵略の阻止と開放への端緒となり、また、そこから彼らの発展につながって、今にあるのは、以後の日本の後押しの寄与が少なくなかった。それらは、知る人ぞ知る事実なり、です。

 

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