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2013年11月

2013年11月26日 (火)

ゆるがぬ大地に根を下ろす

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しっかりとしたよりどころを持たなければ、根なし草になってしまう。ある討論番組で、「一体、何ものなのか、アイデンティティはどこにあるか」、と問う人がいましたが、ちょっと虚をつかれて衝撃的でした。振りかえってみれば、自己の思いはいろいろの道をたどってきたけれども、その帰結は安易に外的条件に答えをもとめたような気もします。でも、主体性ということでみれば、内なる責任に行き着くはずだったかも知れないです。

生きるための本能は、内なる闘争心が燃えているはず。それを抑えていい子になろうとしていた時代は、思えば子供じみて見えますが、永き眠りの中にまどろんで、少し覚めてみると、7年にわたる占領下にあった人心は、新しい民主主義の影にかくれて、罪を負った者のごとく、去勢されたごとく、それと気づかず自己喪失の病が日本を覆って、いまにつづいていたのでした。

それは、GHQの策略だったと気づくようになりましたが、その考えは責任を外的条件にもとめるもの、その後も60年余の間、日本が漫然と受け入れてきたことを見れば、GHQの責任に帰すことは、もはや虚しい気がします。こころやさしい日本人の、その血そのものが今の状況をまねいている、ほかのだれのせいでもない。ここに至って、世はようやく外的条件に惑わされることなく、アイデンティティに目覚めつつある気がします。

「世界は腹黒いというこを忘れたのか」、と国会に参考人として招かれた人の発言がありましたが、目の覚める思いです。言われて気づけば、世界は卑怯、ということがわかってきた。しかし、それを責めても得られるものはないです。結局のところ、先人たちが空から見ている日本という、この大地にしっかりと根をおろしているかどうか、が肝心だと思います。

 

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2013年11月19日 (火)

割り切るということの危うさ

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 ものごとは、ぱっと割り切ってしまえば答えは簡単にでます。悩みは解消、あとはその結論にしたがって決断すればよい。つまり想定外に起きることは、あくまでも除外で、責任範囲外ということになります。逆に言えば、それは結論のために割り切って考えるという、答えを出すに好都合なものです。

いま、小泉元首相の「即原発ゼロ」発言が話題になっています。しかし、現実には、内外を問わず想定されるすべての事態において、考えなければならない、それ相応の時間をまたなければ結論はだせない、即決断という生易しいものではないはずです。それが責任ある政治家の仕事。人類は、燃料なくして生きていけるわけもなく、ウランを含め化石燃料もいつかは尽きるわけで、無尽蔵ではないんです。後世のためにも燃料は残さなければならないと思います。

いつエネルギー争奪戦が勃発し、政情不安になっても不思議はないです。太陽光発電にしても、自然環境にそぐわない、ぶざまで高価、実に効率のわるいものです。そういう状況において、50年、いや100年、200年を超えてエネルギーを考えるのは重要なことです。小泉元首相のいう、「首相が決断すればできる」、「必ず人が良い案を考えてくれる」、などという安直な得意のワンフレーズは、自論に世論をなびかせるための誘導尋問にひとしく、かつての政権交代という沸騰の悪夢を思ってしまいます。小泉時代は元気がでましたが、いまは、なんだそんなものだったのかと、幻滅を感じてしまいます。日本は、原発事故に対して果たすべき責任が世界から求められてるはずで、これからも、他が成し得ない新しい技術開発を期待してやみません。

 

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2013年11月13日 (水)

あきらめ切れない拡散志向

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もっている知識が行動を促すなら、それはそれで正当なものでしょうが、その知識なるものが感情的な所産であるなら、外から眺めたとき滑稽なものになりますね。人の心を、思い通りにできるはずもなく、不遜で一方的な考えの押しつけには、哀れさえ感じますが、朴槿恵大統領のいう、「日本には後ろ向きの政治家がいる」、あるいは、「日本は考えを変えるべきだ」、という批難は、いつものパターン、それは、いつも、そのまま彼女自身に問われる言葉として突き刺さるはずですが、おそらく、そういう違う角度からものを見るということは、慣れていないのでしょう。

過ぎ去ったことを、どのようにとらえるかというのは、当時の人々の思いの日常を、心に描いてみるところに、悲しみも喜びも感慨として興趣深いものがありますが、それ以上のものではないし、まして、事実をまげて尾ひれをつけて、それをもってこれが正論とばかりに糾弾できるものでもないです。つまり、ものごとは現在時間の中で処理されるのであって、黙して時を経ればその時代に即した肯定として定まります。

それでも責任を外に求める、そういう拡散志向はたやすいですが、考えを変えて自らにどうしてそうなったのか、と問いつめる内に向かう集中志向は、冷静さがいりますね。その内なる集中志向が、より良い生産的なものを生み出すのは、確かでしょう。

いつまでもふくれっつらを見せていれば、得れるものは何もないでありましょうに、あっちこっち行って、やっていることは負け犬の遠吠えにしか見えません。「青い山脈」のなかで、新鮮な言葉としていまに心に残っているのは、
「セネカ曰く、思慮深きものは、たやすく怒らず」 というものでした。言いたいことがあるなら、直接に会うことが、なぜにできないのか、そこが不思議といえば不思議、その常識はずれの姿勢には、思慮ある指導者としての責任感が見えてきません。

 

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2013年11月 5日 (火)

無知なる秩序の破壊

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誰しも人生は大変なんだと思います。一時の思いこみによる高揚は、ときとして人を裏切ります。それは自らの無知からくるものか、それとも周りがいまだに無知なのかは、定かではありません。秋の園遊会において天皇陛下に手紙を差し出すということは、あり得ないはずだった。

人の成長は、知性によるところが大きいとすれば、知性なるものは、感性のはたらきによって熟成される。つたかずらが縦横に這うのを見ても、懸命に伸びて行こうとする意思のあることに気づくように、知らず知らずに、ものごとのあるがままの姿がわかってくる。そういう感性の持ち方は、だれも教えれくれないし、自分で体得するしかない。

正しいく見えているということは、意外に難しいですが、学校で教えられて誰にも見える正義がある一方で、実は見えていない正義もあるわけで、むしろおぼろにしか見えない正義の方が重要で、それを知るためには、非常に深いものを考えていかないと、見誤ることもある。天皇陛下に手紙を渡す行為が自分ひとりの考えであったなら、それは知性の欠落した部分があったのでしょう。

太平飽食の時代の気のゆるみか、感性の劣化を思わせます。だれもがしなかった、その秩序を壊して、ひとつの風穴が開けられたということは、重大です。それを利用しようとするものが現れ、無知とはいいながら、取り返しのできない実に罪深いものがあると思います。

 

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