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2013年11月13日 (水)

あきらめ切れない拡散志向

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もっている知識が行動を促すなら、それはそれで正当なものでしょうが、その知識なるものが感情的な所産であるなら、外から眺めたとき滑稽なものになりますね。人の心を、思い通りにできるはずもなく、不遜で一方的な考えの押しつけには、哀れさえ感じますが、朴槿恵大統領のいう、「日本には後ろ向きの政治家がいる」、あるいは、「日本は考えを変えるべきだ」、という批難は、いつものパターン、それは、いつも、そのまま彼女自身に問われる言葉として突き刺さるはずですが、おそらく、そういう違う角度からものを見るということは、慣れていないのでしょう。

過ぎ去ったことを、どのようにとらえるかというのは、当時の人々の思いの日常を、心に描いてみるところに、悲しみも喜びも感慨として興趣深いものがありますが、それ以上のものではないし、まして、事実をまげて尾ひれをつけて、それをもってこれが正論とばかりに糾弾できるものでもないです。つまり、ものごとは現在時間の中で処理されるのであって、黙して時を経ればその時代に即した肯定として定まります。

それでも責任を外に求める、そういう拡散志向はたやすいですが、考えを変えて自らにどうしてそうなったのか、と問いつめる内に向かう集中志向は、冷静さがいりますね。その内なる集中志向が、より良い生産的なものを生み出すのは、確かでしょう。

いつまでもふくれっつらを見せていれば、得れるものは何もないでありましょうに、あっちこっち行って、やっていることは負け犬の遠吠えにしか見えません。「青い山脈」のなかで、新鮮な言葉としていまに心に残っているのは、
「セネカ曰く、思慮深きものは、たやすく怒らず」 というものでした。言いたいことがあるなら、直接に会うことが、なぜにできないのか、そこが不思議といえば不思議、その常識はずれの姿勢には、思慮ある指導者としての責任感が見えてきません。

 

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