« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年12月

2013年12月30日 (月)

内外の軋轢が抗体を生む

131230a_2

だれしも保身のためには自説をまげられない。それは立場と観点にもとづく信条に根ざしている。それぞれの立場と観点は異なり、利害と欲望、それに名誉がからんで一致することがない。靖国参拝というものは静かなものであって欲しいですが、内外ともに日本そのものに向けられる風あたりは、まるで知性というものが感じられません。

それは言葉は何であれ、押さえつけておこうという高所からの意思が見えるからです。それらの自己愛的にならざるを得ない思想信条というものは、その見方の正しさを盲信するおそろしさがあります。日本の中で日本人が、けがれなき心でお参りする、ただそれだけのこと、なにも敵対するような意思表示をしたわけでもないのに、まるで好戦的であるかのように故意に曲解して日本をおとしめようとする中韓に加担するような、そしてそれをいさめるものもいないのは、一体どうしてなのか。連合国の意を通すための断罪のための形ばかりの東京裁判、アンフェアなジャッジが尾を引いている。

結局は今もって日本は、国際感覚に照らして、はがゆいほどに反論することもなく、しかも相手の非を批難することがありません。それが海外が理解するものを少なくして損な立場になっていると思います。けれども、そういう忍耐を強くして、矜持をもって相手の悪口をいうことをつつしんでいる。そして彼らの色には染まらない。その心の大らかさは、じっくりと時間がたつほどに日本への信頼感が醸成されていくはずです。また、実は内外を問わず軋轢があればあるほど、日本はしぼむどころか、かえって強く元気になれるような気がするのであります。

 

| | トラックバック (0)

2013年12月25日 (水)

曖昧という確かなもの

131224a

日本人は神経が細いと言います。感受性が豊かで繊細な能力をもっているということでしょう。いつも何かを感じることで生きる喜びと、心の平衡を保とうとしてきました。厚顔無恥という図太い神経とは対極にあるものです。万事控えめに白黒をはっきりっせない曖昧さを好み、人それぞれであることを知っていました。

その一方で、よく、過去のことについて厳然たる事実だ、という人がありますが、その事実というものは、ものごとを主観によって解釈した結果によるところが、なきにしもあらずです。もしかしたら、それも数多くある事実の断片であるかも知れず、そのひとつの事実をもって善悪の判断基準にするには、公正を欠くことになります。往々にして、過去のことについて、事実だ、という解釈は、時のながれの中で、そうあって欲しいという欲望に変質したおそれさえあるからです。

世の中に完全なものはないとすれば、いわゆる事実というものも、また半分は正当性を失うでありましょう。つまり過去の事実という断定は、確かとはなりえない”無実”をも含むことであり、ただの解釈にすぎないことにもなると思います。逆に言えば日本人の曖昧さにの中には、多くの確かな事実が隠されていると思います。曖昧さは、自由という環境の中でしか育たないだろうと思うのです。

 

| | トラックバック (0)

2013年12月18日 (水)

暗躍する妖怪

131218a

せっかく国会議員になったけれど肌が合わなくてすぐにやめた有名人がいましたが、今度は、妖怪と戦うのはえらいことだ、といってやめていった人がいます。何か唐突で真意がぼやけてよく見えません。元々のこころざしは何だったのか、思いどおりにいかないからといって、選ばれた身の重さを忘れて職を投げ出すのは、国民全体への背信ともいえます。

歴史や憲法の見かたは、人の度量と真摯な探究心、あるいは歴史や憲法を思うままにあやつろうとする人によっても、違っているわけですが、それを、全然違う、地獄みたいだった、もう限界だ、と自らの度量の狭さが見えているのも知らずか、人のことを否定して自分は正しい、と言っているのかも知れませんが、そういういずれが正か悪か、見ていて分かりにくい行動というものは、氏自身もまた妖怪に魅入られているためかも知れません。

そう思ってみると世の中は妖怪だらけです。妖怪は、さまざまに姿を変えることができます。人の身体に入り込んで世界中に暗躍しているような、妖怪は自省というものを忘れさせる、観点はひとつしかない、好きか嫌いかで行動をそそのかす、執拗さと無理押しをもって、人の心を骨抜きにしようとします。実は私もその妖怪に操られているのでは、ときどき思うのでした。

 

| | トラックバック (0)

2013年12月11日 (水)

他者を思う生き方の日本人

131211a

世のため人のためという武士の本位は、今も日本人の心の底にある。ひそかに自分のことはどうでも、人のことを思っている、そして人が喜ぶ姿に無上の生きがいを知る。そういった古くから受け継ぎ、育まれた、自分を抑える精神文化がある。一方、アメリカは歴史は浅いけれども、自己の個性を生かすことを尊重する文化がある。韓国はどうかというと、本心はよくわからないけれども、いつも日本に責任を向けているような気がします。

イギリスの婦人イザベラ・バードは、1年近く朝鮮ですごし、人々を主な研究対象にして朝鮮紀行を著し、つぎのようにいっています。「朝鮮人は何世紀にもわたる弱い立場の産物であるとはいえ、わたしは前途を憂えてはいない。ただしつぎの条件が不可欠である」 として、「朝鮮には内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。」 そして、概略つぎのようにつづきます。

「日本がなみなみならぬ能力を発揮して編みだした要求は、簡単で自然な、行政改革の体裁を示していた。」・・「わたしは日本が徹頭徹尾、誠意をもって奮闘したと信じる。」・・「日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。」・・「朝鮮における日本の政策は、国民から当然のごとく自分たちのリーダーであると認められ、文明開化の道をふさぐ複雑多岐な障害をみごとに切りぬけて国を導き、世界が賞賛を禁じえない手腕を示したことも、忘れてはならない。」

 イザベラ・バードは朝鮮をこよなく愛し、研究者としてこのようにいったのでした。日本が奸智にたけることなく良識で行動することをよく見ていた貴重な証言だと思います。時代は、日清戦争が終わったころ、その7年後に日露戦争がはじまるのを予期したか、日本とロシアの対峙にたいしては、最も忍耐づよい国と、最も野心的な国、と評しています。忍耐は思慮にもとづき、野心は私欲に落ちますね。

 

| | トラックバック (0)

2013年12月 3日 (火)

はっきりしないものを決めつける不合理

131202a

研究してみる価値あるものは、没頭するほどにおもしろいが、難解なものほど解がみつからない。そこでよくやるやり方は、自らが美しいと思う解に、辻褄の合う要件を拾いあつめて結論を導きだすことがあります。往々にして、それは違った角度から見えるものを見失うことがあります。

1票の価値をめぐる広島高裁岡山の判決は、違憲で無効ということでした。1票を投じることによって、どれほどの不利益が生じているかどうかは、はっきりと目にみえるものでもないです。また、1票の格差というものは、あちら立てればこちらが立たず、不確定性の原理のごとく、その格差を解消する名案は、国会でもみつかっていません。いかに司法という専門家とはいえ、何をもって平等とするのか、広くてはっきりしない、「法のもとに平等」、という、ただ、それだけの一語をもって、無効だ、と糾弾できるとも思えないのです。

むずかしい課題には、各論があって当然、正解はないのかも知れないのです。それを高裁という地位によって、これが正しいと結論するのは、どこかがおかしいと思います。立法府という選良された議員の多数意見の成果にくらべれば、高裁のそれは、ごく少数の考えです。各議員の1票と裁判官の1票の価値に換算してみれば、その格差は、実に不合理と言えば、不合理。その判決は、3権分立どころか、立法府への越権行為とも思えます。合意形成のむずかしい憲法にかかわる判断は、復すことが困難のものだけに、もっと慎重であってほしい、と思うのです。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »