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2013年12月30日 (月)

内外の軋轢が抗体を生む

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だれしも保身のためには自説をまげられない。それは立場と観点にもとづく信条に根ざしている。それぞれの立場と観点は異なり、利害と欲望、それに名誉がからんで一致することがない。靖国参拝というものは静かなものであって欲しいですが、内外ともに日本そのものに向けられる風あたりは、まるで知性というものが感じられません。

それは言葉は何であれ、押さえつけておこうという高所からの意思が見えるからです。それらの自己愛的にならざるを得ない思想信条というものは、その見方の正しさを盲信するおそろしさがあります。日本の中で日本人が、けがれなき心でお参りする、ただそれだけのこと、なにも敵対するような意思表示をしたわけでもないのに、まるで好戦的であるかのように故意に曲解して日本をおとしめようとする中韓に加担するような、そしてそれをいさめるものもいないのは、一体どうしてなのか。連合国の意を通すための断罪のための形ばかりの東京裁判、アンフェアなジャッジが尾を引いている。

結局は今もって日本は、国際感覚に照らして、はがゆいほどに反論することもなく、しかも相手の非を批難することがありません。それが海外が理解するものを少なくして損な立場になっていると思います。けれども、そういう忍耐を強くして、矜持をもって相手の悪口をいうことをつつしんでいる。そして彼らの色には染まらない。その心の大らかさは、じっくりと時間がたつほどに日本への信頼感が醸成されていくはずです。また、実は内外を問わず軋轢があればあるほど、日本はしぼむどころか、かえって強く元気になれるような気がするのであります。

 

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