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2014年1月

2014年1月29日 (水)

文化と我欲の衝突

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世界は腹黒いという目でみれば、日本と世界が対峙する構図は、誠実に生きようとする文化と我欲の衝突ではないでしょうか。始まりから今まで日本は、他に類をみない独立した国として温和な風土をつくり、庶民は自由に生きてきました。自然に親しむ心の広さが、上下の区別なく良いものは良い、悪いものは悪いという条理を通す心を育んできました。

そして、海の外に目覚めるや、西欧の多様な価値観を、他の国に先駆けていち早く理解しえたのは、美しきものを見極める目をもっていたからに他ならないです。西欧から学んだ、信を得るためにはルールを守る、という規範を律儀に実践してきたのです。そういう真っ直ぐな精神文化は、誇りをもっていいです。

しかしながら、よく見てみれば、世界は我欲をもって保身の術にたけているのでした。我欲は自分だけの欲望を満たそうとします。能ある鷹のごとく、弱点ありとみれば高みより襲いかかってくる。文化が我欲を制するには、戦わずして勝つしかない。文化は時間の中の成長の産物であり、ゆるぎない価値をもっています。我欲は時として理不尽な振舞いに落ち、いずれ文化の坩堝に埋没せずにはおかない。我欲に何ほどの力があろうと、文化を越えることはできないだろうと思うのです。

 

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2014年1月22日 (水)

破れかぶれの不合理

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些細なものごとへの過剰反応は、恋は盲目に似て、ひとつのことしか見えなくなった結果といえましょうか。盲目が意味するところの、理性と常識を失えば、その反応は当然として道を踏み外したものになります。他人の庭で他人がしていることをのぞき見しながら、外から反応せずにはいられない人々がいるのも、自分たちに持っていないものがそこにあるからかも知れません。

そういう景色は、何かさもしい感じがするのです。外から見た、その過剰反応は、ほんとうに心の深みのあるものまでは知るよしもないでしょう。うるわしいものを持てるものと持てないものとの差は、歴然として、名器をもつ者にしか良さを分かりはしないし、それに値する振る舞いもできるはずもないのです。

それなのに、時に遠く外から、度の過ぎた反応してみせることがあります。それは、彼らがもう負けてしまったと悟ったときでありまして、破れかぶれの不合理が際立つのでした。

 

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2014年1月15日 (水)

水に流す・・平衡感覚

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水に流すということは、われに返るということでしょうか。つまり、不浄なものから元の清浄なものへともどる、人の成熟の結果ともいえると思います。中国や韓国では、水に流すという文化がないといわれます。それは永い圧政の苦しみを思わせます。人はいかに一時の激情にかられたものであっても、理性の働きで平衡を保とうとするのが常です。その平衡感覚は、もっている規範に照らして判断した結果とするなら、水に流すことのできない人たちは、永い歴史の中で自らの規範を醸成できなかった哀しさでもありましょうか。

広い心に立って水に流すことは、多様を知ることであり、一方的には成り立たず、双方が合意してはじめて成り立ちます。それが良心の証しとして、自らの名誉も一時の激情の正当化も、そして人それぞれの存在の意義をも見いだされるだろうと思います。

小説「永遠のゼロ」において、一機のゼロ戦が米空母の直前にして、燃えながら急上昇、背面となって逆落としに艦上に落ちます。甲板には、ゼロのパイロットのちぎれた上半身がありました。それを見た艦長は、ややあってつぎのように言います。「わが軍の優秀な迎撃戦闘機と、対空砲火をくぐリ抜け、よくぞここまでやってきた」 と。
・・そして翌朝、遺体は白布に包まれ挙手の礼に送られて水葬に付されたのでした。ここに敵対関係にあっても、その技量と勇気をたたえる、良心という規範と、その平衡感覚をもつ者たちの、いわば武士道や騎士道に通じる礼節と名誉を重んじるこころざしの高さが見えるのでした。クライマックスから静かなる鎮魂へいざなう、ここが肝心な場面であったのです。
ところが、映画ではその場面が再現されませんでした。今や、けがされてしまった、美化、という言葉がよぎったのかどうか、残念なことでした。

 

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2014年1月 8日 (水)

一方的に過ぎる発言

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失望するためには期待が必要です。すくなくとも、何かを実現することを望んでいる確かな持続的な意思と信頼、親愛の情が必要です。そうではありますが、先の安倍首相の靖国参拝に対して、駐日米大使館は、「米国政府は失望している。」 と表明しました。

これにはびっくりです。期待していたものが、まさかという感じでくずれさります。中韓が意を強くしたのは確かなことだと思えば、もう失望を通りすぎて不信感がよぎります。オバマ政府の失望表明は、日本に対する信頼感のゆらぎとするなら、それは鳩山氏がはなった「トラストミー」、私を信じて、といったときに始まったのかも知れません。いまごろになって一矢を報いられるとは、氏の失われた信頼の罪は大きいものがあります。

しかしながら逆にいえば、期待していないものには、もとより失望することもないわけで、米国務省が後になって、失望は緊密な関係の証しだ、と言い訳をしたのは、わずかな救いでもありました。けれども、期待に対する失望というものは、他者が成すことに依存しているわけで、消極的な態度の表れではあります。アメリカは知らず知らずに自らの威信を失いつつあるのか、アメリカの存在感はどこへ行ったのか。

駐日米大使館の声明文にある、「過去への反省を再確認する表現に注目する。」 という結びは、日本に反省せよと、いっているに等しく、アメリカが自省しないのであれば、一方的に過ぎ、歴史を歪曲する国に毒された、出過ぎた発言だと思うのであります。

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2014年1月 3日 (金)

川の音を聞けば

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夏は暑いし冬は寒い。年々何も変わりはしないけれど、ひとつの年が流れて、また新しい年がきた。いま正月気分でちょっと気のゆるみもあるけれど、期待とこれからどうなるのかという未知への緊張感も少しあります。日々是新たなり、というのは惰性に流されないように、ということでしょうか、どこか諭される感じもします。

一方、方丈記は、ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、といっています。何かしみじみと心静かにするものがあります。川の流れは遥か深山から流れに流れてきます。雨の日もあり雪の日もある。そして水面を渡る風さえも吸いこんで流れてくる。青空の下にさらさらと、さざ波に光かがやくことも、そして巌に割かれて落ち、深みに沈んでは潜りぬけ、いつかまた浮かんでくる。そういう浮つ沈みつ変転する川の流れをじっと見ていれば、つねにもとの水にあらず、と感じることもできるような、同じものは2度とない、つねに新しいものに変わっているのだ、ということでありましょうか。

ひとつのことに取りつかれて同じことばかり言っていれば、人心は倦み行きどころも見つかりはしないでありましょう。とどまることを知らぬ川の流れの一点を見ながらも、川の音と身体をひとつにすれば、深山幽谷、野に降る、すべてのものを冷たく清らかにする慈雨、それは、もとは大地と大海から発したもの、そういう壮大な自然循環のドラマに思いを馳せることもできます。それもまた楽しと思うのであります。

 

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