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2014年2月

2014年2月26日 (水)

不平からの脱出

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生き方として、客観性をもたないものに明日はない。とはいっても、誰しも自分の信じるものほどかわいいものはないですから、そこから離れて物を見ることは、とてもむずかしいです。
韓国の朴槿恵大統領は、自分は絶対的に正しいのであって、日本がそれを認めないのが、どうしても許せない。顔みるのもいやだ、という意思表示をつらぬいています。

しかし、国民の生活をあずかって、かつその範となる身にとって、他国を無視して罵倒するだけでは、なにも益するものはなく、進歩もないでありましょう。まして、彼女が持つ一方的な主張を認めよと、それで押し通すのであれば、双方に出口は、始めからないのです。そういう相互理解の道も正当性さえも失って、しかも結果を予測しない猪突猛進は、決して道がひらけるはずなく、負のスパイラルに落ち込むしかないと思うのです。不平家は、自信の無さによって、不都合を他人のせいにします。

そこから新しい一歩を踏み出すには、自らの不浄を捨て、清浄心に脱しようとする、自発性が必要と思うですが、彼女には望むべくもない。国の安定は人心の安定であって、それを成すには、まず経済力しかないと思います。そのことを知らなければ救いようがないです。ために、為政者たるものは怨望家であってはならないです。

朴槿恵大統領のいう被害者意識は千年たっても捨てないという、彼女個人のとてつもない執念深さは、狂気を思います。それは客観性を失って、事実歪曲の盲信による誤解からくるもので、自らの病の自覚もなく、それをいやす術も知らない、そいう指導者の痛ましいような国の姿を思うのでした。

 

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2014年2月19日 (水)

風土と感性が創出を生む強み

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驚くべき素晴らしい発見といわれた、新たな万能細胞・STAP細胞を創出した小保方晴子さんのニュースは、とても明るく勇気づけられるものでした。何が彼女をそうさせたのか、それは、未だ知らないものへの強いあこがれだったでしょうか。その感性は自由な発想へと彼女を育てたこの風土と無縁ではないような気がします。

当初、英科学誌ネイチャーに投稿したとき、「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄している」と言われた、と淡々と話していました。その人の品性まで見下げるような、身もふたもない拒絶のされかたを思えば、その悔しさ、悲しさはいかばかりかと思います。キリスト教世界からみれば、ガリレオが地球は回っている、と言った、そのひとことで罪に落したように、神を恐れぬ驚天動地の挑戦と見えたのでしょうか。小保方さんの発見はそれほどに革命的だったのでしたが、かれらには、その価値観の中で形成された妄念がじゃまして、有るか無きかの微かなものは見えないのでした。

日本には芭蕉の「古池やかわず飛び込む水の音」のように、一瞬のできごとさえもしっかりと捕える術を知っている。その感性は、野山があり、川があり、広い空もある、のどかなふるさとの暮らしの包容力が背景にあって、未知への探究心が芽生える。そして日本人は、他のどんな価値観でも素直に理解することができる、たとえ悪であっても、その中の人間性をみることができるそういう柔軟性は、他には例のない強みだろうと思うのです。

 

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2014年2月12日 (水)

過去を問うより今できることを

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いま日本にふりかかる火の粉は、もとはといえば内なる反日メディアから発するもの。そのご注進に意を強くした諸外国が悪乗りした結果にちがいないです。ことほど左様に、いわゆる進歩の気概をもつ人たちの、それと気づかない罪は深いものがあります。評論家の西部邁さんは、「もはやこれまで」の中で体験として、左翼はもともと利口だけれども、少々長くやっていると必ずバカになってしまう、と言っています。ひとつの思いをいつまでも固執してバカになっているとしたら、それに構っていても仕方がない。

河野談話の不当性をめぐり河野氏の参考人招致を自民党が拒否したことは、私には妥当と思えます。これまでの河野氏の言動からして、たとえ招致できたとしても、「実は間違っていました」、ということはありえないと思うからです。どんなに不当性を追求したところで、河野氏の考えが変わらない限り、そこで氏が発する正当論は、曲解によって必ずやメディアや諸外国に逆手に利用されかねない、と思うからです。

議員の演説は院外で責任を問われない、という憲法に照らせば、過去の個人を難詰して責任を迫るよりも、ここは現議員の責任において見直しを行い、理路整然として国会の議決によって、河野談話を正せばよい、それができなければ、もはや政権が決断するしかない。と思います。

 

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2014年2月 5日 (水)

経験の域をでない発想

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韓国政府は、フランスの国際漫画祭において、戦時下の女性への暴力をテーマにした作品を出展しました。暴力による悲劇的被害者だ、と韓国がいっているの聞けば、おおよその内容は知れます。野蛮で非道な仕打ちというものは、中国でも韓国でも、彼らの歴史の中でよく聞くことがあります。もう、残忍で寒気がするほどものもあります。台湾の人たちにおいても、乗込んできた中国軍の残忍なやり方の記憶が今に消えない。

漫画の創作において、イマジネーションは、自らの経験にたよるしかない。彼らの発想というものは、所詮、自分たちの社会の慣習や歴史の中にある経験から発してものだ。つまり経験からくる発想は、自分たちの所業に根づくだけに信じるだけの強固なものがあるだろう。しかも韓国は男尊女卑の伝統をもつ。しかしながら、日本人には、そのような粗暴な経験はないのであって、しかも、江戸の遊郭においても、近松の心中作品をみても決して身分の低いものではなかった、暴力は無かったであろうと思う。

彼らがいう、日本人が野蛮で非道というのは、彼らの身に照らして、そうであるはずだ、という思い込みであって、自らの野蛮さが現われ出ているに過ぎない。惑わされてはいけない。実に根拠のないこと言っているだ。自分たちの経験によって、日本人は、野蛮で非道と決めつけていることは、どうしようもない愚かさでしかないだけに、日本の悩みは深い。

それにしても、漫画祭の主催者は、日本の出展を排斥するアンフェアな断を下したのは何故か。直情径行の国、韓国が国策として行っていることを見れば、豊富な資金がどのよう流れたのか、思わずにはいられないのです。

 

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