« 独善に落ちる人たち | トップページ | 投げた言葉のゆく末 »

2014年4月23日 (水)

創造という才能の光

140423a

 予期せぬ驚きは反抗心に変わるのか、それとも出る杭は打たれるのたとえ、とかく才能あるものは、こらしめを受ける運命にあるのか。もう3ヶ月となろうとするSTAP細胞の有無をめぐるメディアの騒がしさは、彼らの職業病といってまえばそれまでですが、どこかおかしい気がします。

世論は私刑であり、私刑はまた常に娯楽である。と鋭く指摘したのは芥川龍之介でした。その言葉の世の戒めにもかかわず、それと気づかない現実があります。日本人の一面として、何ごとも局所的な見かたで、形式や末梢に気を奪われ過ぎるきらいは、本質を見失って迷走することになりかねません。メディアの根っからの強いものへの反抗心が、方向を見失ってそうさせるのか、営利主義に走り、つねにゴシップを追うものには、おそらく創造は生まれない。

しかし、ひたむきに青春を追うものは、創造という才能の光を放つのです。余人にはできない才能というものに重きをおくなら、その秀でた感性というものは、他には代えがたい、われらが享受できるもろもろの所産の源泉であれば、有無をいわせぬものがあるはず。ならば、踏みつけるより育てるのが筋というもの。

人間は考える葦であるなら、人の生きる条件としての青春は、なにびとも奪う権利はないのです。それを奪うかのようなメディアの責任は重い。だれも責任を負うものはいない。けれども思わぬ挫折が、新たな飛躍の力となることも確かです。

 

|

« 独善に落ちる人たち | トップページ | 投げた言葉のゆく末 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/126209/59517620

この記事へのトラックバック一覧です: 創造という才能の光:

« 独善に落ちる人たち | トップページ | 投げた言葉のゆく末 »