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2014年4月16日 (水)

独善に落ちる人たち

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 ノーベル平和賞はいい加減な賞だ。と見破ったのは、ヘンリー・S・ストークスさんでした。そういえば、そういう気もします。いままでの業績というよりは、成るか成らぬか分からないままに、やってくれるだろうことに期待を込めて、平和賞に決めたようにも見えるからです。ただ、栄誉をたたえるにとどまらず、未来への予測にたった、政治的な匂いがします。その授与は、本人のみならず、世界の情勢を巻き込んで、平和という名の、人々への思想の押しつけという感じもします。

平和賞が道具として使われた、という物議もありました。佐藤栄作にしても金大中にしても、なんでという思いがつよい.。つまり、賞に値する結果が見えてこないのです。平和を志向すれば、平和がくるというものでもない。われらに平和が身にしみて、友好と善意をもってしても、悪意で返すものもいるのです。日本が弱体したと見てとった中韓は、反日をあらわにしてはばかりません。病的に、そして執拗に、日本の平和を害することに、ひた走るという現実があるのです。

平和賞のオバマ大統領が弱体したと見たのか、増長するシナの圧力は、抑えることを知らない。そうして見ると、平和は力があってこそ保たれる、ということに気がつくのです。中韓は前近代の思考から抜け出せないでいる。そういう学習能力のない、時代おくれの幼稚性には、弱みを見せてはいけない。そういう意味において、日本の憲法は、世界に誇りえるものとは思えないです。

自衛とは、自他ともに邪悪を排し、自らがゆくべき正しい道を、断固として守ること他ならないと思います。それは世界的に普遍的な価値として、認められているのです。そのことを、見ずして、都合よく平和憲法とのみ自賛して、それを押し立てるのは、みるべきものを見失った憐れむべき独善の、市民感覚でしかないと思うのです。

 

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