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2014年5月

2014年5月29日 (木)

分に過ぎた力の結末

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 分不相応のものが力をもてば、理不尽なことがまかり通ります。それもたまたまであれば、一瞬の冷水を浴びせられて、目覚ましにはなりますが、そういうことが日常となれば、害悪でしかないような。人は社会の中で、何がしかの力を与えられたときから、夢ごこちの中に過信に陥り、抜きがたい自己陶酔によって平衡感覚が麻痺、もはや観念が固定する。

それがいまの新聞であり、わがままな原発再開不可の判決であり、沖縄の教科書問題など、多々思いあたるのであります。はたまた、外を見れば、はるか洋上に勝手な線をひいてわが領土と野蛮な威嚇をするものが、あるのでありまして、いずれも、未成熟のままに、分に過ぎた力をもったがゆえに、世の道を過ったのではないか、と思うのであります。

それもまた、自己中というものか、虚栄のために迷える人間らしさ、でもはありましょうか。しかし、それぞれに、文明の成長とは言い難い、退行するような世の習いは、飽食によって劣化の道をたどるのか、一体どうしたものでしょうか。何かを成し得る環境にあって、力を成すものは、それなりに妥当性と共感をよぶものを持たなければ、ほんとうに害悪でしかありません。

 

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2014年5月23日 (金)

間違いを正す期待

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いずれにしても、好悪の激しさは無知を生み、無知は無理解にいたる。自社理念を繰り広げる新聞の論調は、世論の誘導をもくろんで大仰な見出しで世に訴えます。集団的自衛権について、おそらく他の国では、問題にならないと思いますが、大方の新聞は、飛躍と偏見にまみれてみぐるしいです。大変なことをやろうとしている、とマイナスイメージの焼付けに躍起になっているからです。あまりに繰返し強調しすぎると、信憑性はうすれ、かえってマイナスに作用する気がします。自省のきかない自意識過剰な紙面は、読む人をして、一時的には、そうかと思うにしろ、やがて時間を経て何かが違うと思いはじめ、より安定なものへと思考がいくだろうと思います。

日本のみならず世界の、安定を希求することが平和の本旨であるならば、大事なことは、国際感覚として間違った動きは許してはならず、その間違いを正すことが、責任ある立場というものであり、世の期待というものでありましょう。日本だけがその責任を免れることはないでありましょう。そういう意味で、日本が危難に巻き込まれる、というのは、ひとりよがりの責任回避と期待の背信とも言えると思います。

有識者の懇談会が報告書の中でいっているように、憲法は、無防備、無抵抗を定めてはいませんから、自衛によって使命達成のために、自らのアイデンティティーを失ってならないのは、当然でありましょう。報告書はつぎのように言っています。外界の変化に合わせて、自己変容をしなければならなし、大きな変化にかかわらず、その憲法論のもとに安全保障面が硬直するようでは、安全が害されかねない。と、つまり、旧来の憲法論は、現状に即していないと思うのであります。

 

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2014年5月14日 (水)

未然に悪は許さず

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野望をいだくものは、善悪無知により、敵をあざむくことに腐心する。王朝の権力志向に根ざす弱肉強食の地に、どっぷりつかった結果、粗野性のままに品位は未成熟にして、行動規範は、育ちようがなかった。自らの非を、臆面もなくそのまま他になすりつける、品性の無さをさらけ出している。彼らは、ただ欲望を満たすに、どん欲であって、今も弱者とみれば前近代的に攻撃的に走ります。

静まって太平にいたるも、おおよそ、大海の神聖なるを知らない。そのょうな者の存在は、まず、それを正し、知らしめることが、彼らのためというもの。そういう意味において、「もっているけれど、使えない」、などと、意味不明の言葉は、もう飽きてしまいます。かれらの善悪無知を許し、ブレーキのきかない暴走の果ては、人の道を踏みにじる悲惨なものに広がるやも知れず、それはやがては、わが身にふりかかる。世の秩序を思うなら、やりたい放題の横暴を座視するより、持てるものをはっきりと示して、未然に悪は許さず。そして、義を見てせざるは勇なきなり、のそしりなきよう、矜持を保つ必要があると思います。

 

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2014年5月 7日 (水)

言われて目覚めるということ

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ねこにも一途な思いがある。突然、あるじを失えば悲嘆にくれる。失意の底から抜け出せないのは、ありし日のことがわすれられない思慕の情と、忠誠心がそうさせる。向田邦子さんが可愛がっていた猫は、タイからきたコンラット種、感受性が高く自己顕示欲も強い、伯爵の称号をもち風格があった。名前はマハシャイ・マミオという。人なみに一つの部屋を与えられていた。

帰らぬあるじを想う悲しみから、自分の部屋から出ることなく、だれも受けつけなくなった。妹さんの向田和子さんによれば、四十九日が過ぎたころ、あるじを探しまわる姿が不憫だった。見かねてある日、マミオと対座して、わたしが主人なのだと、こんこんと言い聞かせたという、がばがば噛まれるながら、20分ぐらいも話しあった。へとへとに疲れてきた。猫も観念したのか、もうだめだと、ぐにゃりと力がぬけてきたという。それから受け入れてもらえるようになった。

猫も猫、人も人、戦いすんで感情のもつれはほどけた。マミオは元のように優美なふるまいで、よくなついてくれた。それからは、世話をしながら自分も癒される。姉はもう、ほんとうに大切なものをのこしてくれたたと感謝でいっぱいだった、ごめんなさい、思い出しても涙がでる、と話されています。

マミオは今はいない。マミオは、よき人を得て十分に話しを理解して受け入れることができた。とらわれていた感情は自分でぬぐうことは、中々できなかったものを、ある日を境にふっきれたのでした。先日見た、「おまえなしには生きていけない・・」の再放送は、いって聞かせるという一つのできごとと、その言葉の力というものに、あらためて感慨を覚えたのでした。

 

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