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2014年6月25日 (水)

すれ違いの悪夢

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 世の中は思うほどにはうまくは行かず、ものごとがすれ違いに終始するのは、両者がすれ違ったことすら、お互いに気づかないでいるためかも知れない。韓国と日本、その似て非なるものは、情を尽くせば打算でかえし、義理と人情のあらばこそ、彼らの心の底では日本への蔑視がうずまき、地位ある長官でありながら、日本の餓鬼ども、と呼ばわるにいたっては、もう、あ然とするばかり。最低限のモラルさえも失って、そのファンタジーの病は高じて地に落ちたも同然。
一方、日本の中をみれば、良かれという思いか、ことあるごとに彼らの肩をもつ者もあるけれど、贖罪意識に染まり、われらが先達を足蹴にして、彼らへの大衆迎合するこによって自らが善良なるものへと身をおくならば、それは大いなる間違いであり、すれ違いでしかない。なぜなら、見てきたとおり、彼らの増長をよびこそすれ、何のためにもならず、いつまでも目を覚ますことがない。つまり、言うべきことを言わないで、よき隣人ではありはしない。
すべての元凶は、彼の国の為政者のなしてきた間違った教育の弊害であり、その誤解が岩となったのであり、議論は成り立つはずもない。河野談話の検証は、彼ら為政者とメディアによる国民感情という名の一部活動家の期待にいかに応えるか、ということに視点をおいたもので、おおよそ事実に即さない愚劣な情の産物でしかないことを、明らかにしたのでした。

 

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