« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月30日 (水)

時が流れて見えたもの 

140730a

 「生きて行くことは、けがれていくことなんだけれども、自らけがす人、人からけがされる人、周りからけがされていく人がいる。」 
これはかつて、作家の藤本義一さんが言ったことばですが、誰しも人生は、大変なんだということでしょうか。人はそれぞれに、人とのかかわりの中で成長していきますが、考えも情緒も、行動もまた、良くも悪くも、知らず知らずに何かの感化を受けずにはいられないです。考えの定まった言葉にであえば、そうかと納得したのが始まりで、その心酔は高揚作用によっていつのまにか、同じ言葉をさがしてしまう。気がつけば、思い込みという感情の淵にどっぷりと浸かって、容易にぬけだせない仕儀になる。そういう一面的でひとりよがりのけがれは、自らには、容易に見えはしない。

   時は流れて、ある時、一つの唄が流れてくる。都会の絵の具に染まらないで帰って、とやさしく言われた言葉もむなしくして、もう帰れない、とつれなく言った一言は、はるか時空を越えて胸に刺さる。それでも、ねえ、涙ふく木綿のハンカチーフください、とさらりと許すつつましさに、その言葉のいつまで消えず、いつの日か気づいて欲しいという思いが見えてくるのは、永い時間の後のこと。言葉には出さず、けがれのないものが、涙したものは、あの頃にして、道を間違わないで、と問うていたのかも知れません。太田裕美さんのヒット曲はいまでも時おり流れてきます。軽快なテンポの中に隠された、結末の哀しみにこぼす涙は、内面のけがれなさを見ていたのに対して、男は周りからけがされていく、みるに耐えない哀れみだったのか、ゆがんでしまった今の世情を見るに、切実に迫ってくる気がします。この唄は、そんな警鐘を鳴らしつづけていたのかも知れないと思うのです。 

 

 

| | トラックバック (0)

2014年7月23日 (水)

平和の旅が冒涜するもの

140723b

 外への迎合は、その正しさを信じるがゆえであるなら、それも仕方がない。しかしいまの世に、悪は、必ずしも悪ならず、善もまた、善に定まるはずもない。彼我、それぞれの信ずるもの、あるいはよって立つ位置により、その普遍的価値が異なるのも当然のこと。その彼我の文化の違いを分明でき得ず、いたずらに外の偽善に引きずられ、自己の存在を見失えば、その地位と名誉は、足もとからガラガラと音をたててくずれることになる。
大分県教職員組合が、韓国への「慰安婦ツアー」を募集したことは、外に迎合して、自己喪失によって異文化の毒に陶酔するような、倒錯を思わせる。「親子で学ぶ韓国平和の旅」 という名称をうたっているが、純真でまったく罪をもたない子供に罪悪感を植えつけるような、そして、加害者としての贖罪意識をもたせようとする意図が見えれば、おおよそ教育者にあるまじき、おぞましくも浅ましい所業は、時間が止まったようないつまでも進歩というものが見えない。それがいまにつづいていることは、ただただ、その無能さに驚くしかない。これはもう、平和という隠れ蓑をきた内部弱体をもくろむ一種のテロリズムと言いたい。
 しかしながら、ツアー募集というものが、応募者がいて成り立つということを見れば,それは多様というものであろうか、それぞれに好きにすればいいことでもあります。親が子供に見せておきたいというならば、それぞれに考えるところ、情実と事情というものがあるのでありましょう。それはそれでよい。大分県教職員組合もまた、おなじ穴に住むというのであれば、そのようなことは、その職を辞して行わなければならない。日本の教職員組合の名前をもって、見学するのは、われらを冒涜するに等しいと思うからです。

 

| | トラックバック (0)

2014年7月17日 (木)

大国の矛盾と古めかしさ

140716a

 真実は力で曲げることはできない。戦略はよし策略は悪し。国の力というものは、必ずしも独裁権力によってつくものでもないです。なぜなら、活力である戦力は、国富である民の所産とすれば、人間の生まれて成長するまでの、自由でおおらかな生命力の育成があってはじめて、その総和として民の力が結実するからだと思うのです。そこには、情報の遮断も、言論の押さえ込みもないのです。
 中国は新しい大国の関係、という言葉を使い始めましたが、いかにも古めかしいです。世界が、新しい時代はどうあるべきか、模索しているときに、ひとり、偉大なる復興という過去に執着しても、もはや古びたものは、旧きにおいて価値があるのであって、いまの時代には適合はむずかしいでありましょう。時代は流れているのです。機会あるごとに、古き時代の産物に発想を得るのであれば、それはいまの潮流に合わず貧困性が見えるような気がします。中国は、軍事大国になった感はあるけれど、それだけのことしかないです。
 いわゆる大国というものに要求されるものは、それなりの品格とするなら、自らを大国と自称し、それをもって自国の優位性をアピールし、大国の関係という言葉をもって、自国への干渉を排除しようとするなら、もはや品格は霧消するに等しいです。内部構造には、私腹を肥やそうとする慢性的腐敗、主権と称して小数民族の人権を蹂躙して止まない、文明国にあるまじき矛盾、そしてかれらへの、歴史の隠蔽と捏造という風説は、やむことがないのでありまして、その大方を信じる者として、大国は未だ遠し、の感があります。
その内部の現実とのアンバランスと矛盾は、格言にいう、大男総身に知恵が回りかね、を想起し威圧感を減殺するのです。しかし格言は、また、小男の総身の知恵も知れたもの、といましめるのも忘れないようです。

 

| | トラックバック (0)

2014年7月11日 (金)

器が大きいわけ

140710a

 法の支配は何するものぞと、暴力と威嚇で現状を変えようとするものがありますが、正当性のない力のごり押しは、文明社会の秩序の破壊であります。よく知られた言葉に、タフでなければ生きていけない。やさしさがなければ生きていく資格はない。というのがありますね。彼らには、このやさしさというものが徹底的に欠けていると思います。というよりは、やさしさはひ弱ということで蔑視の目でみている。やさしさでは生きていけない、そういう未熟で小さな社会に生きている。
けれども、強くてやさしいということは、日本のちょっと古い言葉でいえば、正義の味方であります。つまり、いま文明社会の一員として必要なことは、私欲がなく、こだわりがない、器が大きい、ということでしょうか。しかも思慮があるということでしょう。考えてみれば、お人よしの傾向がある、日本人の生き方に当てはまる気がします。何がそうさせたかといえば、圧政はなく、のびのびとした気風と、人々の調和と秩序を重んじる風がこの国に吹いていたのであります。洋の東西を問わずあらゆるものに、一理あることを認め、曖昧のものさえ、何かの真理を含むものとして受け入れる広い心、やさしさをもっているのでした。そして一人ひとりが、武士や商人の生き方の中に、責任という心の持ち方を大事に受けついできたのであります。ゆえに、いつも自ずと行動を起こすに慎重なのであります。
哀しみや、言い分はいくらでもあるんですよ、でも言えばぐちになる、ということを知っているから、言わないだけなのです。それに照らしてみれば、海の向こうで、なりふり構わず力を振りまわすものは、器がとても小さいと思うのであります。

 

| | トラックバック (0)

2014年7月 3日 (木)

洗練さは微塵もない

140703a

 今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩きだすよ・・・、洗練された名言ですね。傷つき倒れても、いつまでも一つ所に留まることなく、常に生まれ変わりながら、ひとは伸びていく。だから今日は今日の風に吹かれましょう、まわるまわるよ時代はまわる、と中島みゆきさんの名曲です。時代は流れ、やがて、倒れた者のあとには、大地の恵みが豊かになったのでした。だからいまはもう、勝者も敗者もない、みな対等であって然るべきです。すべて過去は、必然にして、歴史に定まるのみ、憎しみは何も益をもたらしはしないでありましょう。
 アメリカの議員18人が河野談話の検証を容認できない、という書簡を米国の日本大使館の送ったという。考えても見よ、60余年も前のこと、今に引きずって非難するは正気の沙汰とも思えない。まったく事実歪曲にもとづく不当な言いがかりに加担するは、何も知らないで利用されるだけのアメリカの劣化は、ここにも見えてしまう。いつまでも勝者の視点を捨てよ。社会の底辺で生きなければならなかった人たち、といっても身銭は兵士以上に得ていたはずだが、言わば普通の国であれば秘すべき恥辱の断面、当時としてはだれもが納得していた取るに足りないことだった。
その自らの汚点を政治に利用して恥じないものに、先進国が追従できるような、洗練さは微塵もないのであります。それでも、アメリカ人といえども、自らの利害に目がくらむというなら、何をか言わんやであります。

 

| | トラックバック (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »