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2014年7月23日 (水)

平和の旅が冒涜するもの

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 外への迎合は、その正しさを信じるがゆえであるなら、それも仕方がない。しかしいまの世に、悪は、必ずしも悪ならず、善もまた、善に定まるはずもない。彼我、それぞれの信ずるもの、あるいはよって立つ位置により、その普遍的価値が異なるのも当然のこと。その彼我の文化の違いを分明でき得ず、いたずらに外の偽善に引きずられ、自己の存在を見失えば、その地位と名誉は、足もとからガラガラと音をたててくずれることになる。
大分県教職員組合が、韓国への「慰安婦ツアー」を募集したことは、外に迎合して、自己喪失によって異文化の毒に陶酔するような、倒錯を思わせる。「親子で学ぶ韓国平和の旅」 という名称をうたっているが、純真でまったく罪をもたない子供に罪悪感を植えつけるような、そして、加害者としての贖罪意識をもたせようとする意図が見えれば、おおよそ教育者にあるまじき、おぞましくも浅ましい所業は、時間が止まったようないつまでも進歩というものが見えない。それがいまにつづいていることは、ただただ、その無能さに驚くしかない。これはもう、平和という隠れ蓑をきた内部弱体をもくろむ一種のテロリズムと言いたい。
 しかしながら、ツアー募集というものが、応募者がいて成り立つということを見れば,それは多様というものであろうか、それぞれに好きにすればいいことでもあります。親が子供に見せておきたいというならば、それぞれに考えるところ、情実と事情というものがあるのでありましょう。それはそれでよい。大分県教職員組合もまた、おなじ穴に住むというのであれば、そのようなことは、その職を辞して行わなければならない。日本の教職員組合の名前をもって、見学するのは、われらを冒涜するに等しいと思うからです。

 

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