« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »

2014年8月

2014年8月30日 (土)

自由を貫くという理不尽

140827a

 まっすぐに立っていることは、とても難しい。朱にまじわれば赤くなる、のたとえのように、生きるほどに何かの色に染まるざるをえない。それが感性、情念となって、人の個性という価値になる。個性の尊重とその自由という、自己増長と悦楽の権利を絶対のものとして、もてはやしてきた世の風潮があります。しかしながら、その自由という権利を与えるに、限りなくやっかいなものが、人の心に忍び入る魔手にあやつられる、自我のままに抑制と平衡感覚を失わせることでありましょうか。

 朝日新聞の、まるでどこの国に新聞か、というほどに偏向した論調の繰返しは、綱領にうたう言論の自由を貫くに、すさまじいまでの執念を燃やして、その個性の発露の躍如たるものがあります。高い倫理観をもって責務を全うする、という言葉も空しくして、故意にねつ造記事を流しつづけるという、悪事をしていたのでした。社長以下、免職もなく、誰として責任をとらないどころか、なお本質をまげて正当化をはかろうとする醜悪そのものです。

個人に表現の自由があっても、公器である新聞には、自ずと守り行うべきモラルを課されている。それを持たなければ、どうしようもなく、地に落ちたも同然。それどころか害悪であり犯罪となる。他をおとしめようと自らが描く夢をもって、他を糾弾すれば、いずれ自論は破綻せずにはおかない。なぜなら、ある目的をもった自論は、少なからず欲望や執着心をともない、時間の長きにわたって正当性を維持するには、あまりにも脆弱なものであり、世には有り余るほどの異なった正当論のある中で、その闘争に勝つことはできないのと思うのです。

 

| | トラックバック (0)

2014年8月21日 (木)

知恵をだせという言葉の無残

140820a

 歴史を政治にもち込むと、事実がゆがんでしまう。歴史とは別物のの主観がまじり、思い込みが高じて願望は、だんだんとふくらんで事実に変る。そうなると、もはやそれは、正しい歴史認識と呼べるものではない。
自己中心的な、内に対しては扇動となり、外にたいしては攻撃工作の道具となる。よって自他ともに、あらぬ方向に秩序をかく乱して止まない。その行為は、メディア、為政者を問わず大罪なり。

 正しく知るべき歴史はこうだ、とはっきり言わない朴大統領ではありますが、意図は、はっきりしている。日本をおとしめることができれば、それでよい、それが目的だからだ。自らの地位を、守るために日本を利用しているのであって、それ以外の何ものでもない。反日で通せば、どうにかその身は安全圏にあることを知っている。それだけのこと。
彼女は、好んで出口のないトンネルに入ったのでした。崩れることのない、この上ない安全な道をすすんでいる。なぜなら、歴史の真実を捨て、不実なるものに執着するのであれば、どこまでも、日の指す日がやってくる恐れはない。それは、人民への範をなすものとして、大いなる過ちなり。
 

 「日本の政治家の知恵と決断を期待する」、と、まるで宗主国にでもなったような気分か、人を見下して言い放つその倒錯した感覚は、逆鱗に触れたも知らずか、無礼にしてかつ責任転嫁をして止まない。もう彼女には、抜け道はどこにもなく、ただ、ただ、無為にその力尽きるまで、歩いていくしかないだろう。70年も前のことを、今に言いつのって相手をおとしめることに躍起になっている姿は、いまの時代に、見るに堪えない。
いまも、情勢は刻々と変りつつある中で、知恵を出せ、決断せと、という言葉の、言うべき相手は、他人ではなく、黙して、自らに問うべき言葉であるを知らない。何かをつかんで日本を分かろうという姿は、かけらも見えない。
 

一方、中国は、日本のことを分かろうとしているのではないか、少なくとも、日本は分からなくなってきた、と悩んでいるのではないか。打てど響かない日本を計りかね、どうやって一歩踏み出したらいいか迷っている。なんのかんのと言ったって、結局、中韓は、日本のことが気になってしょうがない、言わずにはいられない、ということでしょうか。逆も真なりです。中韓はいつも気になる存在です。

 

 

| | トラックバック (0)

2014年8月14日 (木)

勇気ある行動は他を制す

140813b

 うろたえてはいけない。豊かなこの地、この自然のなかで、細やかで美しい感受性を育んできたがゆえに、情に引きこまれることも多し。それは時に災いもする。
世論は、集団的自衛権に反対という考えが、半数をこえる結果がでている。もっているけれども、使えない、というワンフレーズは、意表をついて効き目は絶大。その不毛な言葉の根拠は、憲法を都合よく、解釈したことにある。それは、憲法のどこにも明文化されていないにも関わらず、巧みに引き出されたものだった。為政者ではない一人の法制局長官という職にある憲法学者が編み出したものだ
った。とすれば、"使えない"というのは、策略といってもいいのではないかと思う。

 集団的自衛権の行使反対と言うは、他の不正を許すという、文明社会への背信、自分には関係ないという、全体への責任感の欠如、わが身の恐怖心が先立つ勇気のなさだろうか、あるいは正義を守るという意思の弱さか、現実に目をそむける浅慮と軽薄か、はたまた、日本そのもへの反感と中韓へのおもねりが、幅を利かすためか。いずれにしても、助けて欲しいけど助けませんよ、という身勝手は、道義に外れる。

 勇気ある行動は、おのずと他を制す。勇気ある行動をとらなければ、勇気は育たない。
先ごろ大関昇進を果たした豪栄道は、大和魂を貫いてまいります、と誓った。これを言うには、勇気のいることだった。賞賛に値する。勝負の世界にいきるもの、雑念を払い、邪心なく、その心魂を傾ける心意気や、よしであります。

 

| | トラックバック (0)

2014年8月 6日 (水)

虚像の道を追わせた背信

140806b

 決めつけてしまえば、ことは簡単だ。もうそれで押し通すだけでいい。しかし、世の中は、複雑で一体どうしてそうなったのか、どうすればいいのか、考えれば考えるほどわからなくなる。そんなことはお構いなし、という国もある。ただ無闇に押すだけ。

結局、韓国の言論というのは、まず固定観念をつくってそれに基づいて動く。その思い込みは、自らの心情に合うものだけを、無批判に受け入れるという簡単な原理で成りたっている。それを絶対なものとして、ただ妄信する。多様にぶつかれば、いきおい言葉は攻撃的に紋切り型になる。理屈はない。反論のための反論に終始し、相手を封殺しようとする。権力につかれた暴君のごときだ。小中華という自負によって生み出された日本への蔑視感がそうさせるのか。

しかし、彼らにも現実が見えたとき、そんなはずではなかった、と屈折した感情によって、一つのことを必死に言いつづける悲しさがある。そこに多様な個性が出てこないのが不思議というか、もうあわれというしかない。一体、何を求めようとするのか。もとめるべきは、なぜそうなったか、謙虚な自己の反省の中にあるはず。なぜなら、道は自ら切り拓かなくて、だれが与えてくれるというのだ。自己を客観視できなければ、振る舞いはいつまでも粗雑のままだ。

歴史は進化するために流れている。茫々とした中にも避けて通れない必然もあれば、ロマンもある。歴史は、大きなうねりの中で、あらがうことのできない運命にあやつられて、広大無辺につむがれる。不遜にも、そのひとつまみを、私有として掌中できるはずもないだろう。それなのに、朴槿恵大統領は、ことあるごとに、正しい歴史認識などと、政治にもてあそぶのは、あわれの極みなり。すべての民の幸せは、どこにあるのか分かっていない。

彼らに同調していては、彼らはそこから脱することはおそらくできない。しかし、朝日新聞のしてきたことは、それにまったく重なるものだった。韓国の肩をもつ振りして実は韓国に、虚像の道を追わせた重大な背信でもあった。しかも日本に対して悪辣にして害悪を流してきた。
・・・このように、決めつければ、楽な気分になる。決めつけるということは、一種の麻薬かも知れない。


| | トラックバック (0)

« 2014年7月 | トップページ | 2014年9月 »