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2014年9月

2014年9月27日 (土)

過剰と欠如がまねくもの

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 過剰は、いき過ぎであり、欠如は無知であります。それは時に人の情緒の起伏に表れ、波乱をよぶこともあります。誰しも人の過剰なるものには、閉口し、欠如にあえば疲れ果てます。欠如が過剰に走らせるのか、それとも過剰なるがゆえに、欠如にならざるを得ないのか、いずれにしても、過剰も欠如も、何となくうっとうしい。おそらく、それと気づかず、安らかならざる身の不安感が、過剰にさせるのかも知れないです。自らの欠如を知るものは、それが自制となり、過剰に走ることをしない。

しかし、韓国をみていると、欠如を知らず、言うこと成すこと過剰であります。厚顔無恥というか、あと先かまわず突っ走る。その行き当たりばったりという感じは、後に論理破綻をきたし、客観的な普遍性を失い、もはや聞くに値しないご都合主義に落ちる。

つまり、強制的を、強制性に変えるということは、まったく意味するところが違ってくると思います。何ごとも世の制約と自制によって秩序が成り立つことに照らせば、強制性というものは、世の中の約束に従うことであり、広く受け入れられているのです。納得づくであります。そうすることが良い結果になるということであります。まだ若かった彼女らは、親や家族を思い、自ら意思を固め、得心していたに違いないでありましょう。それなのに、いまになって、第三者が、強制性があったといっても、意味をなさないのであります。

韓国は手加減を知らない。そこに、つつしみというものが生まれえないのは、互いに容赦のない世界に生きているせいでしょうか。なんだか分からない、もやもやしたものを払拭しようとする表れが、反日に向かうのかも知れないです。その反日の、攻撃的な性向は、獣的であり、中傷は執拗で、内政干渉をも辞さない態度は、侵略的であると思います。彼らのもやもやしたものは、彼らがそれと気づかず、慢性的な精神不安症にかかっているのではないか、そのために、虚勢を張って、正常な判断を欠き、欠如と過剰に気づくことがないのでは、と思うのであります。

 

 

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2014年9月22日 (月)

不確かな未来の予測

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 成熟は時間を必要とし、さまざまな道をたどりながら、人それぞれに個性と経験によって、生き方や信念が定まり成熟してきた、という自覚にいたる。しかしながら、それは錯覚かもしれない。未知は深遠にして、人間は生涯、未熟のままということもありえる。

多数決で事を決めるのは、一見、合理的にみえて、所詮、平均値を出したに過ぎず、成熟した知性の持ち主の最良の方法を選んだわけではない。人間、間違いや思い違いを避けることはできず、各人がもっている判断材料もまちまちになる。多数決の論理で、それらをおしなべて同等に扱う以上、その結果は、最善の策とは保障されない。一人ひとりが可能性の是非を無視して、理想を描いていたとしても、現実は厳しいものがある。

スコットランドで、イギリスからの独立の住民投票の結果が否決されたことを受けて、日本の一部のマスコミが、住民投票というものが、選挙というものを補完して、よりよい社会になると信じる、と住民投票という方法に、期待を抱くものもあるけれど、その多数決による答えが正当で、かつ最善であるという根拠を見出すことは難しい。

ましてや、現状からの方向転換を図るに、不確かな未来の予測はむずかしく、考えるほどに、結論は遠のくことを思えば、市民の声を政治に届けるのだといっても、住民投票というもの、否応なく、吉凶いずれかに道をきめてしまう、博打をするに等しい気がします。

 

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2014年9月10日 (水)

昔、文化の香り高い国があった

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 もう長安の都は、よほど遠くなった。明州までくれば後は海を渡るだけ。阿倍仲麻呂は、36年ぶりに海のかなたの日本を思う。玄宗皇帝においとまをつげ、楊貴妃とも別れの言葉を交わした。
見送りのためにここまで共をしてくれた人たちが、海辺で送別の宴をひらいてくれた。楽しく過ごした。和やかな談笑のひととき、一人ひとりの友情と厚情を思い、文化の花やかな長安城を思った。朱雀大路を行き交う人々が瞼に浮かぶ。
やはり、唐という国に、来てよかった思った。

  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

この歌は、その宴で、夜になり月がたいそう明るくさし昇ったのを見て詠んだと語りつがれている。古今集の左注に遺されている。
いざ海に出て船は難破、阿倍仲麻呂は、ついに故国の土を踏むことは叶わなかった。
その昔、そこに唐という国が、あったのでした。

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2014年9月 5日 (金)

自信と勇気と清潔を

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 日本人は元々、清潔好きといわれています。1日の終わりに風呂に入りアカを落として、新たな気分で再生する。また、身も心も不浄なものと自覚し、身を清めることも、よくあること。身を清めることは、初心にかえることであり、心を静かにする礼儀作法ともいえます。

「日本を取り戻す」とは、ひとことで言えば、身をきれにして、さっぱりしよう、ということではないかと思います。気がつけば日本は、元々もっていた大事なものを失いつつ、自分から汚れ、外からも汚され、すっかりけがれてしまって、輝きも薄れてしまった。ここで、ゆっくりとアカを流して、再生を期すのです。心静かに目をとじれば、唄を忘れたカナリヤのように、わすれた唄も思い出されてくる。それが、「日本を取り戻す」ということではないでしょうか。つまり、自信をもって歩きはじめる、ということだと思います。

人それぞれにとらえ方も、感じ方も違うから、これがそうだと言い切るわけではありませんが、浜矩子女史は、ちがった見方をしているようです。文芸春秋の誌上でつぎのように言っています。「安倍政権は、『日本を取り戻す』のスローガンで、『走り続ける日本』への回帰を目指す時代錯誤政権だ。過去に引きずり戻そうとする毒ガスの香りを放って、中々の危険物であることは確かです」 と悲観主義に立てばそんなことになるのかと、驚きでもあります。

何を失ったかの自覚がなければ、それもいたしかたないのかも知れません。そのような悲観論をメディアが歓迎すれば、見えるものも見えず、自由な発想も阻害される危険性があるのではと思います。「日本を取り戻す」というのは、政策をもって力づくで成すものではなく、自然に勇気をもつことに他ならない。そこに清潔な拍手をおくるものであります。 

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