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2014年10月

2014年10月24日 (金)

公器の美酒に酔うもの

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 公器の美酒に酔うもの、その我意が害をなす。朝日新聞の間違いはどこにあるか、といえば、彼らが信じるところの正しい道を歩んできたところにある。懐疑を持たず、正しいと信じることのいかに愚かであるかがわかる。信じるというのは、情の産物であって、客観性もまた自己の判断によるものであれば、おおよそ、その正義とするものは、思惑と欲得がからんで大河の一点の水を汲んだに過ぎない。

朝日は、これからも正しいことは、言い続けなければならない、と言っている。そこが、間違っているのではないか。実はもともと、この世に、正しいことなどない。錯覚か、それと願望であってこれが正しいというものはない。正しく見えたのは、その目がそう見た、のであって他者の目は違うものを見ている。互いに見る景色の違いは、いかんともし難く、理解を超えることはよくあるところ、それは仕方ない。互いにその深遠の底に、いくばくかの真理を含むであろう。

しかし、公器をもつものが、自己に酔いしれてはどうしようもない。主張すること自体、それは自由だが、朝日の新聞としての間違いは、主張と記事との区別がないところにある。ニュース記事において、主張するところを強弁するために、記事を生み出そうとするところに、無理が生じる。つまり、記事そのものが、主張のための記事になり、事実から離れて主張の匂いがするようでは、もう記事とはいえない。全体に、公器を忘れた、わがもの顔の自社主張の宣伝新聞に成り下がる。そこに、正しいと信じる姿勢に、ゆがみが生じる。

世界に、日本を代表する新聞と言われながら、自ら日本を貶めるという、他の国から見れば信じ難いもので、実に罪深いものがあるが、その主張は何のためだったのか。いわゆる慰安婦に関する虚偽報道は、韓国の肩をもち、かつ日本への攻撃をしているのであったが、しかし、そんなに韓国のことを思うのであれば、彼らの資質を尊重して、日本が学んできた近代文明の普遍的価値と同等の中で見ることが必要だった。

それなのに、いたずらに、低次元に、彼らの情感に訴えることだけに終始したのは,じつに下品で、低級なやりかただった。日本を貶めた罪は深いといっても、日本への信は、そんなに揺らぎはしない。それに比べ韓国への背信は、それ以上に深いのではないか。大衆に媚びて、彼らを利用するだけで、しかも虚偽の植えつけは、彼らの歴史への懐疑の芽をつみ、歩みは遅々としている。害が害を生んでいる。

 

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2014年10月13日 (月)

独り占めの悪夢

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 創造は反逆か、それとも挑戦か、あるいは風土に根差して生まれる稀有な産物でしょうか。それほどに、無から有をつかもうとする作業は、途方もない難事です。創造は、さまざまな既知と未知との格闘であり、深い思索と探究の果てに、機知というエッセンスをもつものに、勝利をもたらします。その結果、他の人たちに驚きと喜びをもたらし、人類の暮らしに貢献するとういう栄誉を手にします。

 ノーベル物理学賞は、青色LEDを開発した、赤崎勇教授、天野浩教授、中村修二教授の3氏に贈られることになりました。やはり、それを生む風土というものはあるだろうと思いますね。打算と欲得、不信の世界にいてはできません。未来を拓こうとするには、それに見合うだけの過ぎ去った年月の醸成が必要だろうと思います。つまり、歴史を無駄に刻まない土壌があったればこそです。

そこに、先人の英知が継承され、極めるということに、喜びを見出す伝統が育つからです。他者に求めるのでなく、自らの中に求めつづけるという姿勢には、崇高なものがあります。
怒りというものは、たとえ正当性があったとしても、復讐という一面が見えますが、向かうものが自然法則の世界が相手であれば、厳然として妥協はないのであります。それでも、もとめ続ければ、清泉にたどりつくことができるのであります。

 一方、創造とは異なり、平和を希求する姿勢は、万人のものであり、日本だけに与えられたものでもありません。憲法九条をノーベル賞にという考えは、小学生のように善良ではあっても未だ無知、それを至上とする、うぬぼれであり、他に押しつけようとする自己中心的な思い上がりであり、世界を相手にする愚かな不敬でさえあります。

思いついたら走らずにはいられない小市民と一部の政党の意にくみしようとするのであれば、今度は、日本自らが、ノーベル賞を政治利用した、とそしりを免れえないでありましょう。その気勢をあげる人たちは、いつの間にか何者かに毒され、謙虚さを忘れてしまったに違いありません。憲法の起草者であるアメリカが、受賞するならそれでよい。

しかし、一国の憲法が、ノーベル賞になることは、有りえないでしょう。仮に間違って成ったとして、予想するに、不愉快に思うものもあれば、いっそうに日本への風波は激しさをますでありましょう。あるいは、主権を守る気概なしと見られ、信は落ち、海の果てに埋没するのでありましょうか。それが彼らの裏に隠された目的ということもあり得ますが、夢々、目先の一事にとらわれておごるべからずであります。

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2014年10月 6日 (月)

肯定的な日本人

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 ありのままを受け入れることは、人の生気を養う。たとえ、無常な世の不条理に会おうとも、ありのままは、そこに実現したのであり、不都合であっても虚像ではない。ものごと、肯定的に捉えれば先が見えてくる。普遍的な世界に行きつくためには、苦悩のすえに、現実を肯定していくしかない。

「永遠の知性から永遠の肯定をもつ、日本人の考え方それ自体が、非常に肯定的である」、この言葉は、先ごろ来日された台湾の李登輝元総統が、記者会見でのべられたものです。永遠を、生々流転に、置きかえればなるほどそうか、と思うのであります。記者会見での李登輝元総統の言葉は、概略、つぎのようなものでした。


 ・・・台湾総督府、児玉源太郎の民生長官をやった後藤新平、これが結局なにをやったかというと、台湾の一世紀ちがうような社会を作り上げた。産業発展にとても尽力してくれた。この人は非常に偉大なところがあって、1898年、総督府に来とった1080人の日本人の役人を首にした。日本に追い返した。その代わりにね、結局、1080人の人間に代わるそれだけの人材をね、日本から呼び寄せて、その人材の中には、みなさんもご存じと思うけれど、新渡戸稲造とか、非常に有名な方々が沢山きていました。

新渡戸稲造はそのとき、有名な工業改良意見書を書いた。わたし、農業改良の専門家だけど、あれをいまから見てもね、すばらしいなあ、あれだけの改良意見書を書ける人というのはね、もう新渡戸稲造だけあって、よく書いておりますよ。そして、児玉源太郎総統はね、それを見てからすぐ、工業局を設立して、彼に工業局長として、活躍してもらうことにした。彼がいっしょうけんめいやってね、台湾における工業の問題は、農業問題から解決すると同時に工業面における製造の問題、砂糖の製造の問題、それをやりまして、こういうような優秀な人間を、非常にたくさんもってきた。

永遠の知性から永遠の肯定をもつ、すべては肯定たる性格、これは私がかつて新渡戸稲造先生から習ったところの武士道の精神、ま、これが、日本人の特長ですよ。すべてがこれに依存している。考え方それ自体が、非常に肯定的であるということ。ま、こういう様なことが私自身からみてもね、若い時にはこういうような教育、そういうやりかたで、自然に得たものが大きかった。だから、あえて言えば、結局、日本というのは何かということはね、東日本の大震災、人々が見せた態度、秩序をまもるために、社会の秩序をよく保ち、がまんしながら、その厳しい状態の中から、いかにして、解決されるか、待っているその気持ちは、国際的にみてもね、中々ない。

精神力、わたし名づけて日本精神、こういうところが日本にはまだ日本人の良いのがよく残っている。それが教育によって、ある程度、曲げられてしまっている、最近それを復活しなければならないという気持ちが強くなって、私ひじょうに、うれしいなと思っています。

・・・みなさんね、お願いしたいことは、台湾は中国の一部であるというような考え方はやめてください。それがわたしが、日本と台湾の関係が非常に密接であればあるほど、お願いするところは、ここなんですよ。ありがとうございました。(2014.9.19 大阪)抜粋

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