« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年11月

2014年11月23日 (日)

真っ直ぐに成れないのは

141118b

 後に戻れない、ということで言えば、過去は解決済み、と見ることもできましょうか。それでも、ことあるごとに過去にこだわる人もいるわけですが、それを言っちゃお終いよ、というも憚られるような風が吹いているのであります。

現在起きたことは、過去の流れと、未来への慣性の関係において、起きるべき準備がなされていた。それは、だれも止められない因果によって必然性があったのかも知れないです。そうして、1秒後には過去のものとなり、しだいに歴史の中へと姿を変えていくのであります。

世に完全なものはない、と知れば不完全なものも、また愛すべき人間らしさというものでしょうか。すべては、不完全なる人間ということを謙虚に知れば、互いに心を癒し、励ましあうこともできたでありましょう。

完全とまでは行かなくても、人が真っ直ぐになり切れないのは、間違った教育による進む方向の過ちであったり、あるいは愚にもつかない賛美で、他の道を見失わせたり、また、現在の感情で過去を言い、往時の現実から離れてしまう、ということでありましょうか。
それは、流れる木の葉のように、明日への確かな自信の無さが、過去へのこだわりを捨て切れない、という姿勢に表れて、失意の繰り言のようにも聞こえるのであります。

それら自己に溺れる虚栄は、確かに生きて行くことの、致命的な障害になることは、大いにありえるだろうと思います。それは本来の人の姿ではなく、時間の中で汚れてしまった不浄というもの。となれば、水に流して清浄な心に立ち返ったなら、なんと清々しいことか、と知ると思うのでありますが。・・・

 

| | トラックバック (0)

2014年11月14日 (金)

野卑の表れるも知らず

141114a

 ホスト国とも思えないような、客人へのそ知らぬふりの硬い態度、その裏にあるものを推し量れば、彼が遺恨を含むは大義なき、尖閣と靖国の、ただ2つ、非はあちらにあり、こちらにはない、と定まっている。その無理押しの、彼が身に覚えがあればこそ、堂々と成しえず、目は泳ぎうろたえた姿をさらし、底の浅さがそれと知れる。あれは、人民におもねる演技であったと、伝えるも、ならばそれでよしとも思えず。人民のよろしき後ろだてなき政権の、いつのときも日本という国を利用しなければ、国が立ち行かぬというのであれば、もう片腹いたい。大国とは名ばかり、うちに腐敗と怒号のうずまく矛盾を抱えて、自らの時代遅れに気づかず、外に指導的立場もわきまえ得ずば、いまの世に、大国の関係を築くというおごりは、目にあまる時代錯誤なり。その内部矛盾は、「内政問題であり、いかなる干渉もするべきでない」、という言葉も空しく、われら人類におよぶ普遍的価値の前にその言葉は、無力であるを彼は知らない。かつて、列国の中に、大国関係を築く、というを聞かず、その言葉におのずと野卑のあらわれるも知らずか。論争もまた、受けた言葉のそのままに、責任転嫁に走るばかりの、うそ寒さ、不法ものともせず、やること成すことにせもの天国、かれらに明日はあるのだろうか。

 

| | トラックバック (0)

2014年11月 9日 (日)

歴史の裏返しの濡れ衣

141109b_2

 人は正しい行動を見て、正しく育つ。不運な境遇にあれば、悔しさが渦まく。その逆境は、自由と美的な営みを知らず、思考はその泥沼の中でもがく。
韓国の反日はどこからくるのかといえば、呉善花さんによれば、日本の韓国併合が起源ではなく、もともと、それ以前からあった日本をさげすむ伝統に由来するのだ、ということです。だとすると、理由なんかはないわけで、とても重要な証言ですね。そういう風習というものがそうさせているなら、彼ら自身に問題があるわけです。彼らが言っていることは、信じがたいことばかりです。

イザベラ・バードは、「朝鮮紀行」の中で概略つぎのように述べています。首都ソウルにしても、商店と呼べるレベルのものは無かった。あるのは、特権階級の搾取であって、民は、無関心、無気力、無感動の底に沈み込んでいる。朝鮮には階級が二つしかない。盗む側と盗まれる側である。両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であった。そして、日本については、日本が徹頭徹尾、誠意をもって奮闘したと信じる。と言っています。これは、そこで見ていた者の確かな目でありましょう。

一方、呉善花さんの「韓国併合への道」には、つぎのように書かれています。韓国の国定教科書は、「日帝の不法で過酷な支配と冷酷な収奪」という観点で貫かれている。これが、正しい歴史認識という、戦後、韓国政府の取ってきた立場だった。

かれらの言う、過酷な支配と冷酷な収奪、というのは、イザベラ。バードの見た朝鮮そのものの、姿ではなかったのか。両者を比べてみれば、結局、韓国の反日というものは、韓国の歴史の裏返しではないか、と思うのです。

つまり、自分たちの歴史の中に見ていたものを、今度は、日本人の中に写して見ている。そういう教育だった。過去の敵はもういない。日本は、現実にそこにいる。経験してきた歴史というものは、リアルに目に映る。だから、日本は歴史を反省しない、と信じて止まない。実は、反日というのは、自らの悲惨への憎悪の復讐を表しているのではないか。しかしそれは、相手を間違えている。正しい行動を見て来なかった者の、その思い込みは、迷惑この上ない、と思うのです

 

| | トラックバック (0)

2014年11月 1日 (土)

無知と不信と反逆

141101b

 思い込みが強いと誤解が生じる。とはよく言われる言葉ですが、良きエコノミストの条件は、良きジャーナリストの条件と同じではないか、という人があります。その条件というのは、一に独善的であること。二に懐疑的であること。そして、三に執念深いこと。つまり、第一に、いつも自分が正しいと思っている。第二に、自分以外の人々はいつも間違っていると思っている。そして第三に、絶対に敗北を認めない。という、ちょっと他を威圧するような特異なものです。

なるほど自分に厳しくすれば、そういう気の持ち方もあるかも知れません。ある条件があれば、結果を生みやすくなるは確かでしょう。しかし、安倍首相が言っているように、条件をつけるべきではないのであります。もっとも、この場合の三条件は、条件というよりも、エコノミストに名を借りた、関係のない、持論の展開のような気がします。

思えば、それらしい人たちの、いくつかの状況に思いあたるのでございます。結局、それは個々のエネルギーの無駄づかいであり、高潔な精神力を誇示しながら、その実、事実に折り合いがつけられない、異端に見えるのでございます。
自分が正しくて、人が間違っている、というのは、自分のもっている物差しで、人を計っているのでありまして、無知と不信、という重い病にかかっているのかも知れません。

そして、絶対に敗北を認めない、ということは、虐待や虚言に反抗するならまだしも、現実でありながら、いつまでもそれに抗うのは、意気地のなさ、実に煮え切らない、不遜な態度に見えるのでございます。殻の中に逃げ込んで、もう外のことは見えなくなっている。それは、もう自分だけの世界に生きているのでございましょう。

そういう状態というのは、ちょっと小さい声で言わせてもらえば、くるくるぱー、というのでありまして、ある時から、時間が止まってしまっているのであります。つまり、世を見る学習機能が麻痺しているということでありましょうか。なにごとも、決めつけてしまっては、話しにならないのであります。自戒をも込めて。

 

| | トラックバック (0)

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »