« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

2014年12月

2014年12月24日 (水)

根づよく残ったもの

141224a_2


 それと知らずに何かの力で操られることは、人が本来もっている健全な思考の成長と発達を妨げる。それは、ある意図で見えないところで進行していたのだけれども、庶民はそれに踊らされていたことに気づかなかった。アメリカの民主主義と正義をすっかり信じていたのだった。

けれども、昭和21年GHQは、新聞や報道に対する、削除または発行禁止に関する30項目の検閲の内容を日本に示した。アメリカが、日本は邪悪ときめつけ、伝統ある精神を見抜くことができず、日本を意にままにしようという傲慢さがでています。いま、その30項目を読むと、驚くべきことにしっかりとメディアの中に生きていることがわかる。

ひとえにこれを玉条としてきたのであろう日本の一部のメディアの思考停止と責任は重い。江藤淳が米国立公文書館でこれを見つけて、「閉ざされた言語空間」に著している。それは、一切の批判を封じ、もの言うことも、考えることも奪い、日本人の心を破壊しようとするものでありました。
批判することを禁じたものの中から主なものを抜粋すると、つぎのようなものがあります。

 1) 東京裁判の批判
 2) GHQが憲法を起草しことの批判
 3) アメリカや、ロシア、イギリス、朝鮮人、中国などに対する批判

これらは厳重にタブーとされたのでした。一部メディアのみならず政界や知識人の主張の中にも、強く上記に依拠していることをうかがわせるものがあると思います。何ごとも一方的なやり方が通るはずもないです。

| | トラックバック (0)

2014年12月15日 (月)

たたきながらの友好

141215b

 前提条件が間違っていれば、結論もやはり間違っている。大まじめにして、そこにあらわれる行動は、茶番でしかない。歴史にのこる激戦もなく、うらみもなく、戦う戦士のいないところで無意味な、30万人の殺害が、ありえるはずがない。追悼の真は行き場もなく宙に散るばかり。

30万人という途方もない数字をもち出す裏は、白髪三丈のよき時代の遊び心か、あるいは誇大宣伝の流れが今に生きているのかも知れないが、現代には通じない時代おくれというしかない。事件は、ご都合主義に落ちるプロパガンダであることが明かされている。一体に、主張の強さというものは、信頼に足るかどうかに、反比例する。内なる体制維持のためとは言え、荒唐無稽を利用するその国の特異性は、かならずや時代の流れのなかで、その30万人説は、自ら破綻する日が訪れる。

かれの、歴史を変えることはできない、という言葉には、自らその禁を破る矛盾を自覚できない、哀れさがでている。そしてまたも繰り返される、少数の軍国主義者のせいであって、日本国民に罪はない、というに至っては、その前提条件を正当化しようとする卑劣さが見える。それは軍部が悪かった、という意識を日本人に植え付けて、いつまでも贖罪意識をもたせることを狙ったものであることはいうまでもない。

内外の一部のメディアもそれ同調するが、歴史の断片しか見ようとしないというしかない。うそをもって事実と称して勝利を得たとしても、何の痛みも感じないのであれば、じつにクレージーだ。

 

| | トラックバック (0)

2014年12月10日 (水)

不浄のものをきれいに

141210d

 ひと言でいえば、人は、面目のために生きているのではないか。ひとから見られているというかすかな予感が、その存在価値として、心の安定を支えている。孤独で、まわりから何の視線も感じなかったら、これほどやる気の失せることはない。孤独、孤立おそるべし。ひとりでは生きられるはずもなく、ひとがあって自分がある、その中で、少しでも自らの顔が立てばこそ、生き生きと道を歩むこともできる。

しかし、実をもたずして、ただただ、面目だけに生きる人たちも中にはいるわけで、何かにつけて人の面目をつぶすことに熱心、ということもあるようで、それは心の浅ましさがでるばかり、いつまでも実りのないということに気づくべきです。

いまは、衆院選挙戦のただ中、弱者とか格差とか、生活がよくならないじゃないか、とすべて政治に責任を帰するよう声が、通りすがりに聞こえくる。はたしてすべては政治にあるのだろうか。そんなに人はひ弱なのか。生活をよくする政治の即効薬はないわけで、あのときの親のひと言が、後で効いてくるということもある。損をして得を取れ、と言われるように、先のことをじっくりと考えることも必用です。

何をするにしても、人それぞれに、面目なくして、明るく生きる力は湧いてこない。そういう意味で、衣食住の生活要件の前に、しっかりとした土台の上に立つことが必要で、不浄なものをきれいにしていく、そういう教育なり、地味な実践が必要ではないだろうか。

 

| | トラックバック (0)

2014年12月 1日 (月)

軟らかさと固さの対決

141130a

 自虐論の非合理は、人の自由を奪うことにある。出口のない道をいくがごとく、いつとも知れず、明るい光の中に解き放たれることもない。しかし、これは自己の問題であって、何ものかに強要されるものではなく、気の持ち方で解決できます。つまり、頭をやわらかくして視野をひろくしてみれば、問題は多様にうかび上がってくる。その中からいともたやすく、これが結論、などというものはないのだと知れる。

そうして見れば、もはや思い悩むのはやめた方がよいです。その多様ということの広がりは、どれひとつ取ってみても、それぞれ違う変化の可能性をもっている。だから、これひとつ、というわけにはいかない。良識をもって広くこれにあたるしかない。そこに、見えない先の結果をだすことの難しさがある。

一方、その結果に対する批判は、たやすい。的が見えているから、狙えばよい。失敗だ、暴走だ、といかようにも自分のもてる判断基準で、批判するがよい。でも、そこに頭の軟らかさの程度が表れてくる。

アベノミクス反対、集団的自衛権も反対だ、というのは民主、共産、生活、社民の4党、そこに明るい出口はあるのだろうか。非合理でないことを望むばかりです。それは、余るものと足りないものを合わせもつわれらの、多様の中のひとつ、というバランスの妙でもありましょうか。

 

| | トラックバック (0)

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »