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2015年1月

2015年1月28日 (水)

正しい対処というもの

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 他者と共に生きる人間の重要な課題は、お互いによい関係をつくろうと努力することにあると思います。しかしながら、その関係はいつも、どうしようもない現実という壁につきあたります。善悪を越えて今までもっていた価値では、到底太刀打ちできないような壁を前にしたとき、この難題への正しい対処というものは、ありえないと思います。イスラム国という名の組織に名分はなく、ただ狂気による破壊者でしかないようがな気がします。

そこに正しい対処というものがないとすれば、一体だれがそれをなし得たでしょう。異郷の地の彼もこの国の人たちも威信と名誉にかけて戦っている。名ばかりの自由の国にそのようなことができたかどうか疑問です。じりじりと時は移り情勢がうごく中で、見えるものに言うは易しです。結果はどうあろうと、世の流れの中でみな勇気をもってよくやったと思いたいです。

 

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2015年1月21日 (水)

理性と感性と自制

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 人間、うまくやっていく要件は、互いに良い関係を築くことであるなら、大事なことはよきライバル関係を築くことにありましょうか。つまり親子であれ、男女間のあこがれであれ、あるいは国と国のつながりにしても、やりとりに新鮮さがあり、互いに無くてはならない存在にあれば、もう互いにいがみ合うこともないでしょう。
それは理性と感性と自制が、うまく調和した結果と申せましょうか。自制は度量であり、成長であり、潤滑油であると思います。誰しも自制は、なまやさしいものではないですが、けれどもこれなくして世の中は成り立たない気がします。

さきごろ韓国の外相は、慰安婦について、人権の問題、性暴力の問題、と発言したと伝えられています。どこからそのように断定できるのか、理解ができません。性暴力などという実態として根拠のない以上、もとより人権の問題ではないし、そういう言動によって、むしろ彼ら自身が、慰安婦を貶めてきたことを思えば、「慰安婦の方々が自尊心と名誉回復を望んでいることを、日本は深く考える必要がある」という韓国外相の発言は、なんという空々しいことか、と思うのであります。

自制なきものたちはときとして、その断定的な語調がカリスマ性をおびることもありますが、所詮、おごりにほかならないです。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ、でありましょうか。

 

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2015年1月13日 (火)

不条理なり

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 他国から干渉されるものではない。正しいと信じるのであればそれはそれでよい。知識を身につけ健全な思考へ導くのが、明日を担う教育の目的として実践するなら、それは国の存在そのものを表しているともいえると思います。だからその国の教育方針は尊重されるべきです。誰だって自国の教育まで、他国から批判されたのでは、たまりませんからね。

しかしながら、訳あって他国を貶めようとする教育がなされているということが分かって唖然とします。米国の教科書に、「日本軍は14~20歳の約20万人の女性を慰安所で働かせるために強制的に徴用し、慰安婦になることを強要した」「逃げようとして殺害された慰安婦もいた」などと、ありもしないことを、あったかのように記述されていることが分かったのです。

これは同盟国の日本として黙っているわけにはいかないでしょう。外務省は事実ではないと、出版社に訂正要請をした、ということです。教科書への記載内容か具体的であることから、単純なミスではなく、意志をもって記載されたのは明白です。つまり、出版者が必要な事柄として、独自の主観に立って記載していると見るしかありません。

記載内容そのものの真偽は別にして、教科書に載せるということは、小さなことを大きく見せようとする作為がみえます。なぜなら、広島、長崎のことはいうにおよばず、東京大空襲は100回以上行われた。焼夷弾の雨を降らせて火の海としたのでした。その効率的に無差別に市民の殺戮を繰り替えしたことの比ではないからです。火炎の中に倒れた人を見よ。まれにみる非人道的な惨禍をもたらしたのは事実なのでした。そのことを忘れて、出版社は筋道を通さない理不尽というしかないです。

慰安婦のことで言えば、「正論」2月号につぎのような一文がありました。
・・「隊長さん何言うか。私たち手伝いするよ。兵隊さんたくさんけかしてるのよ。商売休むよ。朝鮮日本同じ天皇陛下よ」・・
と。これは多くのことを語っています。思えば涙さえさそうのでした。

 

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2015年1月 4日 (日)

素朴な常識への風あたり

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 風はさわさわ時にはざわざわと吹くのでありますが、世の中も同じようにさわさわ、ざわざわと色んなことが繰り返されます。まあ気分はさらさらと流れのままにありたいと思います。どんなに抗っても後戻りはできるはずもないですが、行きたいところに行けることは、自由という発想に立つ上で大切なことです。安らぎと感謝を込めてこの国の好きなところに行くことは、だれにも非難する権利はないはずです。

それなのに、実りのない友好をたてに、それぞれの騒がしさは、暴走とか、歴史への逆行は許さないとか、あるいは人権をないがしろにした本質は変わらないとか、あまりにも短絡的に思えるのです。何ごとも善悪に分けることの難しさがあるものを、いろいろと押し戻そうとする風が吹いて、少し息苦しくもあります。寛容と偏見の無さ、つまり度量をもつものは、元より攻めることを好みませんが、その一方で、何かにつけて敵意をあらわにするものが内にあって、それは結局のところ、その限られた環境に置かれた人たちの、その中で芽生えた心因の影響によるものかも知れません。

誰しも思いのままにしたいという欲望には勝てないのでしょうか、ある程度、理性より欲望が優先するのは、しかたがないとしても、少なくともこの国に生きて良かったという思いは持ちたいものです。

いまこの国の悩みは、勇気をもって真っ直ぐに歩こうとしているときに、後ろから石を投げてやっつけようとするものが絶えないので、もう満身創痍、遅々として前にすすめません。それは先入観を捨てることの難しさでもありましょうか。それも度が過ぎると、それこそ、偏見と差別にも値するのではないかと思います。ふつうの人が何となくもっている常識と、一部の人がもっている非常識との摩擦は、第三者の利することのないように望むばかりです。

 

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