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2015年2月

2015年2月28日 (土)

真実と虚構の落差

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 水がゆっくりとしみこんでゆき、やがて新たなものが芽生えてくるように、ゆるやかに時間がたつほどに、心晴れやかな気もちにさせる。それが、台湾の映画、『KANO 1931海の向こうの甲子園』 だった。一丸となって目的を成し遂げようとする球児たちの物語。ラジオの実況は街に流され、かたずを呑み聴き入るひとたち、そして背景の美しさもあって、全編に息もつかせない緊張感があった。

単に感動物語というには、なにか違うようなものがあった。それが何であるのか、すぐには分からなかったが、実在の物語として、いまは遠く、かつての時間の中に生きた台湾の人々に、思いを馳せるとき、透き通った水のその純粋のような親近感が、心晴れやかにしてくれるのだった。ここに真実というもののやさしさと強さがある。それが、人々の明日への希望へとつながる。

その一方でここに、2014年9月に行われた国家主席の演説がある。『事実は事実であり、一切のでまかせや詭弁は徒労である。白黒をさかさまにするすべてのやり方は、最後にはすべて自分を欺き、他人をも欺くだけである』 つまり、日本を糾弾しているつもりが、うそはついにはわが身に返ってくる、という自己矛盾に落ちている。

その演説の中には、『大地は至る所地獄となり、村々は焼き払われ、虐殺され、女たちは蹂躙され、30万人が虐殺され、広大な長江が鮮血に染まった、人類の文明史上驚くべき暴行、これらは鉄のように動かぬ事実である』 なんという言葉の品位のなさだろうか。これでは人びとの心をつかむものがない。このような演説を聞かされれば、心ある人民の中には、フラッシュバックが甦り、かえって欺かれていると気づく人もいるのではないだろうか。

 

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2015年2月20日 (金)

信念という病根

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 すべての元凶は、自分のしていることは正しいという信念にもとづく誤解からはじまる。自分は絶対に間違っていないという信念は、人の歩みの中で感情と認識によってつくられ、過剰と欠落の産物になるのはやむを得ない。そのため、しばしば他者とのそれとは、矛盾する悲しさがあります。

自民党の二階総務会長は、朴槿恵大統領からいわゆる慰安婦問題の解決をうながされ、「まったくその通り」、と答えたということです。氏のその言葉は、立場をわきまえず、自己を弁護して他人ごとであるかのように聞こえます。へつらいであり、いずれにも不実であり、見るにたえません。日本の立場は、解決済みというものであり、二階氏が問題あり、という認識であれば、威圧を受けて萎縮し、表層しかみていない、底の浅さからくる誤解というものでありましょうか。

外交は下心であり、もくろみでなければならない。経済の活性をもとめるのが訪韓の趣旨であるなら、それに徹し、横道にそらされ利用されると知るならば、その手にのらないことです。朴大統領に会うなら、間違いなくその言葉の予測できたはずなのに、「まったくその通り」とは、あきれ返ってものが言えません。察するところ、信念によってそれが言いたいがために訪韓か、用意していた言葉がそのまま出たか。

加藤前支局長の出国禁止問題でも、解決の鍵は、朴大統領がにぎっているわけで、「司法の場に移っている」、という彼女のにべもない拒絶は、欺瞞でしかないです。彼女のためにも、なぜに言葉を返さない。いまの病根はここにあり、と思うのであります。

 

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2015年2月11日 (水)

健全なる空気

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 生気みなぎるものは、どこから来るかといえば、人とのぶつかり合いの中からくる。決して孤独の中には生まれない。互いに結びついている安心感という世の空気そのものがなくてはならない。つまり、必要のものは、健全なる空気だ。その空気は、厳然たる事実の積み重ねによって紡がれる歴史によって醸成される。その確かな歩みが、よりどころへと成長する。

しかし、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。というのであれば、よりどころは、外にもとめるということであり、幻想でしかない。しかも、自らの意志を捨てたにひとしい。生気みなぎるものは外にはなく、日本の心の中にある。この地に住むもの、あるいは過去にこの地にやってきたもの、ひとしくもはや郷里はこの地にあるを知れば、実直で、控え目に生きる日本の理念の上に、進むべき道を定めることが、未来を拓く可能性を確かなものにする。

米国教科書の慰安婦の強制連行の記述の共著者のひとり、ハーバート・ジーグラー・ハワイ大学准教授は、間違いを指摘され、「私の言論と学問の自由に対する侵害だ」と批判したと伝えられる。けれども、大切なことは、言論の自由と学問の自由に対する侵害をしているのは、その准教授というべきで、侵害されているのは、ひとにぎりの著作者ではなく、米国の多くの子供たちと日本である。それのみか、韓国の自由をも阻害していると言える。

学者であれば、公正と信義に立つべきであるものを、対して、幸いにして日本人はエゴイズムが希薄である。その分、心が広く、よく人の言動を受け入れる、他の罪や欠点などをきびしく責めない寛容の精神をもっている。その健全なる空気を、いま再び連帯として、自覚する時期に来ているのではないかと思います。

 

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2015年2月 4日 (水)

あったことを見えなくする言葉

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 好き嫌いは、差別することでありアンフェアにもなる。新しい談話へのけん制がメディアや政党からも出されています。侵略の定義は定まっていない、という見解は、民主党を含む歴代の政権が述べていたにもかかわらず、東京、朝日、毎日は、安倍首相に対して、執拗に批難するのはフェアでないと、「阿比留瑠比の極言御免」(産経新聞 1/29)にでていました。

あれは侵略であったとひとことで言い尽くすほど簡単のものではないものを、前3社いずれも侵略だったと肯定の立場からの批判は、一方的な価値観の押しつけであって、理解に苦しむところ、そのけん制球は多分に好悪の情に流されているのではないかと思います。止むに止まれぬ時代の流れの中で、その地には無かった新しい価値観を持つものが、泥水のよどむ中に、清流を流し込み秩序と活況がうまれることもあるわけで、その新風は必ずしも無残な破壊を残すものでもない。むしろ人々は明日あることに目覚めた一面もあったといっていい。

しかし、それを言うを許さないという空気が、いまの侵略という言葉にあって、いま、被侵略側に立とうとするものがこの言葉をもてあそびます。また、戦勝におごるものが、修正主義という言葉を冠して、「侵略」という道具を利用しようとします。民主党の岡田克也氏はかつて、内閣委員会において、菅官房長官に対して、村山談話を引用し、「植民地支配であった」、「侵略であった」、という二つの言質を引き出そうとして延々と同じ質問を繰り返していました。ついに、その答弁に対して、これは大変不幸なことだと、岡田氏は言う。後日、氏は同じ質問を予算委員会でまたしても安倍首相にも繰り返したのでした。

侵略であったいえば、果たしてだれに幸が訪れるというのだろうか、日本全体のことを考える国会の場で、それを引き出すことにどれほどの意味があるのか、疑問でありました。あった事実をも隠してしまう侵略という言葉は、容赦のないものに変わってしまったと思うのです。

 

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