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2015年2月 4日 (水)

あったことを見えなくする言葉

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 好き嫌いは、差別することでありアンフェアにもなる。新しい談話へのけん制がメディアや政党からも出されています。侵略の定義は定まっていない、という見解は、民主党を含む歴代の政権が述べていたにもかかわらず、東京、朝日、毎日は、安倍首相に対して、執拗に批難するのはフェアでないと、「阿比留瑠比の極言御免」(産経新聞 1/29)にでていました。

あれは侵略であったとひとことで言い尽くすほど簡単のものではないものを、前3社いずれも侵略だったと肯定の立場からの批判は、一方的な価値観の押しつけであって、理解に苦しむところ、そのけん制球は多分に好悪の情に流されているのではないかと思います。止むに止まれぬ時代の流れの中で、その地には無かった新しい価値観を持つものが、泥水のよどむ中に、清流を流し込み秩序と活況がうまれることもあるわけで、その新風は必ずしも無残な破壊を残すものでもない。むしろ人々は明日あることに目覚めた一面もあったといっていい。

しかし、それを言うを許さないという空気が、いまの侵略という言葉にあって、いま、被侵略側に立とうとするものがこの言葉をもてあそびます。また、戦勝におごるものが、修正主義という言葉を冠して、「侵略」という道具を利用しようとします。民主党の岡田克也氏はかつて、内閣委員会において、菅官房長官に対して、村山談話を引用し、「植民地支配であった」、「侵略であった」、という二つの言質を引き出そうとして延々と同じ質問を繰り返していました。ついに、その答弁に対して、これは大変不幸なことだと、岡田氏は言う。後日、氏は同じ質問を予算委員会でまたしても安倍首相にも繰り返したのでした。

侵略であったいえば、果たしてだれに幸が訪れるというのだろうか、日本全体のことを考える国会の場で、それを引き出すことにどれほどの意味があるのか、疑問でありました。あった事実をも隠してしまう侵略という言葉は、容赦のないものに変わってしまったと思うのです。

 

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