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2015年4月17日 (金)

一握りの確信という誤解

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 正しいと信じてやまない確信は、往々にして誤解かも知れない。もう、億というお金を注ぎ込んできたという骨董好きの、一枚の皿がわずか数万円、という鑑定結果は、鑑定者も、見るものも涙がでるほど悲しい。

人は一生のうちでどれほどの経験を積み、考えをめぐらそうとも、所詮、わずかな時間の中で得られるものは、一握りでしかない。その一握りからこぼれ落ちた中に真実がある、という結末もまた哀しい現実の中にある。それぞれの一握りを寄せあつめてみれば、それなり真実を含むことができる。しかし、一握りをもって、確信は、ゆずれないという思いは、どこからくるのだろうか。欲望か、不信か、それとも大逆転を夢みるのか。まさかそれが全知というわけであるはずもない。

絶対に正しい、という思いは、他人に影響を及ぼさないなら、それはそれで進むがよい。しかし、確信が誤解というものであり、それを世に押し通そうとするなら、秩序はみだれ、迷惑このうえない結果をまねく。おそらく個々としては、いかに確信に満ちていようとも、その個人が見た世界は、全体で見れば知れたもの、しかも、よくも悪くも感受性の影響を受けずにはいられないはず。この世の交わりは、誤解という確信のぶつかり合いである。

高浜原発の運転差し止め仮処分は、裁判で決めてよいものかどうか、疑問があります。その判例を読むと、そのほとんどが、原発の科学・技術論争に費やされ、それに基づく結論が導かれている。これでは、公正であるべき裁判の地位を落とすに等しい。学術論争の果てに一方が、勝手に結論を下して、突き放すというアンフェアであります。

全人類のために、克服すべき課題ではなかったのか。もっと時間をかけて研鑽を積み世に貢献することが、われわれに課せられていたのでは、なかったか。裁判は、それに相応しいかどうか、厳粛なものであって欲しい。少数の債権者の申し立てに、有無を言わせず大多数の意見をないがしろにするこの裁判の不合理こそ、申し立て人が言う人格権を、現実に阻害しているのであるまいか。と思うのであります。

 

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