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2015年4月

2015年4月27日 (月)

松に吹く風

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 石橋を渡れば坂道の向こうに寺があり、往還をゆく自転車の女学生たちは、道すがらその寺に向かってお辞儀をして通りすぎていくのです。橋のそばには、松の大木があって、見上げるほどに高く、枝ぶりはゆうゆうとしてのびています。

いま風吹きわたれば、松籟はゴーっと低く重いうなり声を発し、大樹が全身でものいうようにも聞こえてくるのです。その声は力強くしかもさわやかに、あたりに満たします。門前に立ってその一点に耳をすませば、静寂につつまれたような気さえしてきます。松は歳月を越えて変わらぬ存在感を示しているのか、その声をきけば、よくぞここまでと、時の流れとそしてまた新たにする思いを感じることもできます。

松風さわぐ丘のうえ古城よひとりなに偲ぶ栄華の夢を、と歌にうたわれたのはいつのことだったか、いまもなお松籟をきくことあれば、春夏秋冬そのときの喜びや憂いが聞こえるようで、そこにたたずまずにはいられません。
これは潮風ふく瀬戸内の郷里の記憶なのでありますが、いまは松はなく、女学生もただ通りすぎていく世になりました。

 

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2015年4月23日 (木)

信じるものが見えない空気

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 信頼できそうな雰囲気は、ほぼ期待を裏切らないです。高圧的な雰囲気では、元より期待するものがないです。よい雰囲気というものは、その振る舞いもさることながら、言葉にだして言わないことで、醸成される面もあるでしょう。

つまり、ものごとにこだわりなく、さっぱりとしたものは、恨みつらみというものがない。その分、上下のへだてなく、広い景色が見えている。あれこれと言う必要もない。他に求めるよりも、自らの力で生きることに精一杯がんばろうという思いが、みるものに伝わり、それとなく好ましい雰囲気を生むこともあるでしょう。強弁しないところに、偽りがない誠実さが表れると思います。

一方、人民は海や空よりも広い度量がある。という演説がありました。平和的発展を堅持し、調和社会のために努力を惜しまない。と言う、言葉は立派ですが、その一方で、戦争できる状態にせよ、戦えば必ず勝利せよ、と檄を発している。まったく逆の極端を言って平然としている。あ然とするばかりです。他国から攻撃される状況にないにも関わらずです。

それは何を意味するのか、挑発か威嚇か、ただの士気の高揚とも思えません。社会の調和に反していることは確かでありましょう。自由自在に、でまかせをあやつる空気が充満して不透明であります。そこに、信じるものがない以上、先のことは分からないのであります。論理の組み立てようがない、その雰囲気というものには、投資するだけの期待の持ちようがない。と思うのであります。

 

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2015年4月17日 (金)

一握りの確信という誤解

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 正しいと信じてやまない確信は、往々にして誤解かも知れない。もう、億というお金を注ぎ込んできたという骨董好きの、一枚の皿がわずか数万円、という鑑定結果は、鑑定者も、見るものも涙がでるほど悲しい。

人は一生のうちでどれほどの経験を積み、考えをめぐらそうとも、所詮、わずかな時間の中で得られるものは、一握りでしかない。その一握りからこぼれ落ちた中に真実がある、という結末もまた哀しい現実の中にある。それぞれの一握りを寄せあつめてみれば、それなり真実を含むことができる。しかし、一握りをもって、確信は、ゆずれないという思いは、どこからくるのだろうか。欲望か、不信か、それとも大逆転を夢みるのか。まさかそれが全知というわけであるはずもない。

絶対に正しい、という思いは、他人に影響を及ぼさないなら、それはそれで進むがよい。しかし、確信が誤解というものであり、それを世に押し通そうとするなら、秩序はみだれ、迷惑このうえない結果をまねく。おそらく個々としては、いかに確信に満ちていようとも、その個人が見た世界は、全体で見れば知れたもの、しかも、よくも悪くも感受性の影響を受けずにはいられないはず。この世の交わりは、誤解という確信のぶつかり合いである。

高浜原発の運転差し止め仮処分は、裁判で決めてよいものかどうか、疑問があります。その判例を読むと、そのほとんどが、原発の科学・技術論争に費やされ、それに基づく結論が導かれている。これでは、公正であるべき裁判の地位を落とすに等しい。学術論争の果てに一方が、勝手に結論を下して、突き放すというアンフェアであります。

全人類のために、克服すべき課題ではなかったのか。もっと時間をかけて研鑽を積み世に貢献することが、われわれに課せられていたのでは、なかったか。裁判は、それに相応しいかどうか、厳粛なものであって欲しい。少数の債権者の申し立てに、有無を言わせず大多数の意見をないがしろにするこの裁判の不合理こそ、申し立て人が言う人格権を、現実に阻害しているのであるまいか。と思うのであります。

 

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2015年4月14日 (火)

美への憧れを失った者たち

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 道をきわめることは、美しさを追求することでしょうか。それは精神と技芸にかかわり、からだの内面の成長を反映して外にでてくる。茶道、書道、芸道、あるいは武道にしても、その過程で自ずと養われる気品が身につく。職人技にしてもそうですが、つねにわれわれ庶民が好むところは、道という名において、ひとすじにわざを磨くことでした。もとめつづけてきたのは、美へのあこがれだろうと思います。

行いであれ、考えであれ、結果が美しいかどうかが、精神の安定と安心をもたらしてきました。国旗、国歌を大学に要請するのは、よくない、という社説を朝日、毎日がそろって掲載しました。

青空にあって、純白におく日の丸は、簡素で主張するものがない。国の形そのままに純真さを表しています。銀座通りに掲げられた日の丸の列がはためく様は清々しく、世界に見ない美しさがありました。どこかで、不意に日の丸を目にするとき、勇気と清廉さをよびさますのです。安倍首相は、感想を聞かれて、当たり前のことを答えたにすぎない。

取るに足りないことを問題としてあげることに、彼らの自由はあっても、そこには、国旗国歌の否定の思いが、浮きあがるのであって、いまだに人心に重荷を背負わそうとする気を放つ。この新聞にして、壊れたままの時計は、愚かというしかないです。学問の自由に何の関係もないところを、社説という威厳をかりて、多数の自由の芽を摘むことに腐心していることこそが、幼稚なのです。

そこには、美をもとめる心がない。この国の姿を写しとる目もない。心を病んでいるものが、新聞を書いているとしか思えない。国旗をあげ、国歌斉唱するに、もぞもぞ、おどおどしてよいものか。と思うのであります。

 

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2015年4月 9日 (木)

非難は益ならず核心をそらす

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 過ちを認めたくなければ、もう感情で押し通すしかない。都合の悪いことは、論点をすり替えるか、ねつ造するしかない。米高校生用の教科書の、いわゆる慰安婦に関する事実と異なる内容の記載に、日本が抗議した。それに対し、米歴史学者十九人は、その根拠を示さず、つぎのように反論しました。

日本が教科書の記載を削除させようとしている。過激派が、ジャーナリストや学者を脅迫し、威嚇している。われわれは出版社や歴史家に圧力をかけ、その研究成果を書き換えさせようとする動きに反対する。と述べ、「史実は確立している」、という意味不明のひと言で、保身と威圧、敵対行動をあらわしました。これは、間違いを指摘されたことへの感情という反作用であり、たくみに論点を変えようとするごまかしだと思います。

これに対し、日本の歴史学者十九名が連名で、マグロウヒル社に対して事実誤認を指摘し、自発的な是正をうながしました。それはつぎのようなものでした。米歴史学者が根拠にあげた、ただ一人実名で名指しされた吉見教授は、強制連行の証拠はない、としていること。二十万人は、実状に不整合で、矛盾していること。天皇に対する記述は、あまりに非礼であること。慰安婦の出身国の多数を占めたのは、朝鮮、中国の人たちではなく日本人であること。慰安婦は戦闘地域ではなく後方の安全な場所にいたこと。多数の慰安婦を殺害したというなら、その証拠がなければならないこと。

など歴史の事実のみを述べるにとどめ、米側への感情的な非難は一切していません。この主張が正しいと信じるものですが、そうだとすると、米側の教科書への掲載は、単に物語としておもしろい、他人の悪口は蜜の味がしたということではないか、と思うのです。

議論をする場合、大切なことは、問題の核心について考えることであります。ここに、相手を非難することは、何の益にもならず問題の存在からかけ離れていく、という日本の歴史学者の矜持が出ています。

核心を見ずに、語気を強めて相手を非難をするのであれば、それは、逆上というもの、その歴史学者の堕落といってもいいかも知れません。核心は何か、ということでいえば、いま日本の中で、国と沖縄が対立することは、なんとか避けて欲しいところであります。


日米のそれぞれの学者十九名の反論内容は、雑誌 will 2015 5月号から概要を引用しました。

 

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2015年4月 2日 (木)

上に立つものの品位

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 見ていれば、やること成すこと不純な動機が見えてしまう。この日本をさげすむことしか頭にないのであれば、それが能力の限界、それも致し方ないか。国の内と外にうずまくその不純、裏にある良からぬ目的のために、正当を装ってことを成そうとするのは、何かの考えにとらわれてのことかも知れないです。「痛い歴史が染み込んでいる日本の施設を、世界遺産登録するのは断固反対する」というのも、そのひとつであります。

「岩礁が破壊されたかも知れないので、調査するから、ボーリング作業を停止せよ」、というのも、確かな論理とも思えないのであります。ある問題を扱う上で重要なのは、広く熟知した専門家どうしで議論しているかどうかだと思います。そうでないと、理解の一致を見ることは難しく議論は平行線にならざるを得ないでありましょう。エネルギーと時間の浪費になるだけだと思います。

責任を負うものは、その責任において、それぞれにその専門とする領域と手腕は違ってくるでしょう。国と地方とでは、考えることも責任の重さも異なり、専門分野も、情報収集能力も分析方法も異なるでありましょう。それを埋めるのは、おのずと互いに理解しようとする姿勢と品位がもとめられるはずです。

また、メディアは、選挙で示された沖縄の民意を尊重しなければならない、という一方的な不信感を煽ろうとしますが、それだけでは、無知と無責任というものではないでしょうか。それを言うなら、選良によって国に託されている民意も、それに劣らず大切なのではないかと思うのであります。沖縄県知事は、「沖縄の民意にしっかりと耳を傾けてほしい」と述べています。

しかしながら、上に立つもの、民意にまかせ、それに乗るのであれば、高度な能力や判断はいらないわけで、楽な仕事かも知れないけれど、結果の責任を民意に帰することはできないのでありまして、知らぬ間に道を間違えるということも、無きにしも非ずでありましょう。一体、民意というものは何んなのか、だれがつくったのか、どれだけの正当性を含むのか、と思うのであります。ことはいかに解決するかという、協力していく姿勢がなければ、前には進めない。と思うものであります。

 

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