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2015年5月

2015年5月27日 (水)

言葉の不合理

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 因果というか、必然というか、よくも悪くも経験は自ずと言葉にあらわれる。不運はわが身と人をあざむき、保身に走る。言葉は、その身の不実を跳ね返すために、脅迫観念となって相手に投げつずにはいられない。

中韓にはつくづく疲れる。一つには、彼らの言葉そのものが、矛盾しているからだ。筋の通らない不合理は、生理的に受け入れ難い。二階自民党総務会長との面会に先立ち、習近平国家主席は、「日本軍拡主義を歪曲、美化しようとするいかなる言動も、中国人民とアジア被害国の人民は決して許さない」と述べ、日本人の心を威圧した。もとより日本は、軍拡主義ではなく、誇示もしないから、それは間違っている。

いま歴史をふりかへり、来し方をじっくりながめて、損得勘定をしてみれば、中韓をはじめアジア諸国には、夜明けが訪れ、おおきなプラスをもたらして今がある。中国も韓国も、高い空から見下ろせば、もはや被害国とは言い難い。習国家主席が言う、軍拡も歪曲も、そのまま中国自身のことを言っているに相違なく、言葉の不合理に疲れる。

二つには、決して許さない、という言葉に表れる独断と専横に飽き飽きする。その決めつけと聞く耳もたぬ、一方的な押しつけは、なんとかならないものか。それら、矛盾と押しつけは、結局、彼らの自法執着のいい加減さの結果であり、不まじめ、という一語につきる。韓国は、なんでもないことに、ひとり相撲をする。勝ったか、負けたか、にこだわる。もう話しにならない。不まじめそのもです。もう、よい加減になされよ。

 

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2015年5月19日 (火)

責任をはたす時代

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 すべてを肯定すれば、ひとそれぞれに生き生きとしている。たとえ思い込みや偏りがあろうとも、すべてを寄せ集めてみれば、その平均値が安定をもたらしている。いま時代は、一部にあやふやな歴史知識に引きずられる序列と覇権の抗争があるものの、流れは太平洋の安定への願いを目指す方向へと、変わりつつあるようにみえます。

その普遍的価値をもつ世界のリーダーの一員として日本への役割が期待されているのではないかと思います。好ましい影響を与える実力が期待されている。権勢をふるうのでなく、世界共通の平和を心から願い、悪しきものには、ひるまずに正す、そういう日本は正しい国だと、言われるような行動をしていく、そうすることによって、責任をはたす時代がいまきたと思います。

抗争に巻き込まれるとか、時代に逆行するとか、内向きで小心な悲観論もありますが、求められるのは、自分だけが安泰であればよい、ということではなく世界のことを考えているという姿勢と責任感を示すことだと思います。

そういう中で、自国だけの情緒のままに生き、日本を糾弾する決議をした韓国という国があることは悩ましいです。それしかないの、言いたいですが、彼らの情念と性であるなら、それも肯定するよりないです。菅官房長官は、「友好国の首相を名指しする形で決議を行うことは非礼と言わざるを得ない。全く受け入れることはできない」と反論しましたが、親しき仲にも礼儀あり、というまことに日本ならでの発想ではないでしょうか。

相手に伝わったかどうか、はなはだ疑問であります。小中華の流れにある彼らの礼儀というのは、序列の上になりたっており、彼らの下位に対しては、まったく礼儀を知らない。むしろ上下の差をみせつけようとする。その意味で、かれらに対して非礼という言葉のインパクトは、おそらくまったくないと思います。世界も同様に、かえって、悪くすると高慢ととられ逆効果だったかも知れないです。非礼というよりは、知性をわすれた侮辱であり非常識な行動だと思うのであります。

 

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2015年5月12日 (火)

勢い余る惰性の結末

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 言わなければ分からない。言いたいことを自由にいえるということは、じつに大らかです。ものごとがはっきりと見えてきます。それはそれでいいのですが、その一方で、何かを非難するときは、おのずと節度をもって、論理と言葉は選ばれるべきではないかと思います。先ごろ護憲派の集会の様子を伝える報道によれば、みなが呼び捨てにして、安倍を引きずり下ろせ、という一点に焦点があつまったようです。

安倍は露骨なうそいう、憲法を壊し、言論を貶め、戦後史をないがしろしている、平和、命という言葉をあんなに汚くした、などなど、言いたい放題です。主催者発表で3万人集まったというのですが、群集に呼応する衝動というのはちょっと恐ろしいような気もします。自らの扇動に酔っているのか、集団的独善的悪口性愉悦症候群とでもいうような様相を感じます。デモに参加して熱中症に倒れたら安倍のせい、という自分勝手さはあきれます。

外に野望あるを感じず、自立も、国を守る必要性も感じないのであれば、その偏向もしかたない。安倍憎しで、広くものごとを見ることができないのであれば、極端なはなし、その判断の正当性は疑わしいです。つまり、賛否に票を投じるだけの資格は有しないのではないかと思います。

「明治日本の産業革命遺産」の登録の件も、韓国が、反対運動に躍起になっているようです。韓国の国会で、「人類の普遍的な価値を持つ遺産を保護するという世界遺産条約の精神に反している」と何だか精神だけが宙に浮いて、意味不明の批判していますが、これもおかしいでしょう。

世界遺産条約第12条は、概略つぎのような意味に読めます。「登録されることによって、保全されるメリット以外の点について、顕著な普遍的価値を有しないという意味に解してはならない」ということです。また、世界遺産条約採択40周年記会合では、「利己的で偏狭な利害を追求するのではなく、より大きな公益のために行動しなければなりません」という提言もあり、相互尊重と、寛容と熱意が、もとめられているのです。

日本憎しに、こりかたまって、条約の精神を解しえないのであれば、これもまた、有資格者かどうか疑わしいと思うのであります。

 

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2015年5月 5日 (火)

静かな目でみること

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 戦いに倒れた友も哀れ、名も知らぬ敵の兵士もいたましい。兵士は止むにやまれぬ時代のなかでただ一心に人びとのため、という気高い精神と勇気をもって戦っていたのだった。ときは流れて、かつての敵は今日の友としていまあることの大切さがあります。

安倍総理の米議会での演説の中に、硫黄島での日米合同の慰霊祭のたびに出席されている、米スノーデン中将の言葉がつぎのように紹介されています。「硫黄島には、勝利を祝うために行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」。ここに、いまの平穏への感謝と敵味方にかかわらず友として、その栄えある生き方を想い、名誉を呼びかけているのです。

勝者も敗者もない。いまは親しい思いで、わが身に代えて倒れていった友たちへの礼節をつくして、平静な秩序を願うのみです。日米で、合同慰霊祭が自然に行われているという事実は、歴史の断片を静かな目でみている日米ならではのことでありましょう。それは、虚栄と虚飾にまみれ、戦勝側の優位に立とうとする人たちにとっては、理解しがたいものかも知れません。敵味方、わけへだてなく慰霊するということと、過去へのこだわりをもつもの、あるいは抗日戦勝記念という古びた言葉を誇示するものとは、価値観を異にする視点がここに示されていると思います。

 

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