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2015年6月

2015年6月29日 (月)

自分勝手は許されず

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 自己主張の強さが、信頼に足るものかどうかは疑わしいです。往々にして、威圧を感じるときはなおさらです。けれども、攻撃は最大の防御ということが、真理の一面であるなら、国と国の関係において、確かにその主張のあくの強さというものは、中国や米国あるいはロシアをみるまでもなく、その国の防御の有効性に作用することは確かな気がします。

安保関連法案において、軍靴の声が聞こえてくるというような一部の主張は、なんとも冷静を欠いて低俗であり、見えぬ敵の罠に落ちてしまったような気がします。それは、防御と攻撃の意味を理解しえないと同時に、有利と不利をも判断できない未熟さをあらわしている気がします。その無知なるがゆえに、迷いのない判断は、極端に走って人心を惑わしているように思います。

いま、安保関連法案がやろうとしていることは、自他ともに、自分勝手は許さない、ということに尽きるのではないかと思います。法を無視する自分勝手は、許してはいけないわけです。そして、いわゆる巻き込まれ論は、仮説の域を出ず、自分の都合だけを考える態度は、わがままであり、国際社会における責任ある態度とも思えないです。

むしろ、安保関連法案をもたない弱点の方が危険であり、もっていれば、何ごとも起きないだろうと思います。時代は変わったのであり、歴史に照らしてみても、後戻りすることはありえないです。反対論は、自分だけは高みにおいて、道をあやまると、自国民を卑下するにもほどがあると思うのであります。

 

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2015年6月22日 (月)

生きるために働いていた

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 持ちまえの進取の気性と研究好きが、実を結んで、日本に、炭鉱、製鉄、造船という産業革命をもたらしました。日本の産業革命遺産は、幕末から明治までの半世紀において成し遂げたことに意義があります。

韓国が、徴用されたと言っているのは、それから三十年も過ぎた昭和十年代のことでした。遺産として価値をもつに至ったことと、徴用とはまったく関係がないと思います。徴用という名においてその価値が減じられるはずもないです。なぜなら、国の存立において、必ずしも徴用=悪ではないからです。もし悪とするなら、いまの韓国の徴兵制も悪とならざるを得ないでありましょう。

当時の炭鉱で働いていた経理担当の女性(89)によれば、差別などなく、朝鮮の人の中には日本人の1.5倍も稼いでいた人もいたと証言されています。産業革命がなったことで、多くの雇用を生んだのであります。それは辛い仕事であったでしょうが、みな生きるために懸命に働いていたということを信じます。

産業遺産登録の反対は、日本の価値の破壊を目指すものに他ならないものでした。ここにきて、韓国が遺産登録に協力の姿勢に転じたことは、中国がそ知らぬ顔で、岩礁の埋め立てが完了した、というにどこか似ているような気がしますね。

 

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2015年6月16日 (火)

避けて通れない大事なもの

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 化石人間というものはため息を誘いこそすれ、何も益をもたらさない。いたずらに、エネルギーを消費し、空転するばかりで、前に進みはしない。河野談話、村山談話というその名を冠したがゆえの苦悩の果てか、お二人の日本記者クラブでの対談は,もう化石人間というほどに、自己愛に固執し、時代が変わったも知らず、同じことしか言わない。名を捨てても、政治家として国の行く末に、尽くすという姿勢はみられない。同じ日本記者クラブでの山崎氏、亀井氏ら4長老の会見もまた、デモのスローガンの域を出ず、独自の説得力がない。

万物は流転するといいます。樋口一葉の名作十三夜の文庫本の表紙には、つぎのように書かれています。
 「冷酷な社会に生きる女たちの、あきらめの姿を写してその可憐な心情に迫り、よく人生流転の相を描き出す」
 ここに描かれた可憐な女は、つらく幸少ない身ながら、父親に諭され、これは私が悪うございましたと、親のため、兄弟のため、そしてわが子のために、苦労をいとわず身を捨てて、がんばってみようと決心するのです。

人生流転の相とは、ままにならないこの世に、どうしようもない力で流されるということでしょうか。つまり、あるがままに、受け入れるということであり、弱音を吐かない、ということになるでしょうか。世は、地球を覆う眼に見えない大きな力で流され、否応なく変化しているのであり、何が真実か、何が正しいのか、ひとりの人間の言葉に、定まるはずはないのでありまして、あわれなれども、化石人間は捨て置くしかないです。

それよりも、その大きな力というものは、明日のために避けて通れない必然かも知れないです。変化を見極め、何ものによってどこに流されていくのか、しっかりと見極めることの方が、よほど大事でありましょう。

 

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2015年6月11日 (木)

行き過ぎた言葉

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 おそらくですが、いまの豊かなくらしが、根底からひっくり返るような危機は、やってこないだろうと思います。これは武力行使の歯止めとなる新3要件のひとつ、とてもきびしいものです。もしそれが現実であったなら、それこそ一大事です。確かな自立が、理不尽によって脅かされるわけですから、なんとか、そうならないようにしなければなりません。

安保法案の論議がさかんです。まじめ一本やりの日本は、権力で動いている国とは思わないです。ですから、戦争になるということは、ありえないと思います。何を信じているかと言えば、行動を起こすのは日本人であり、日本人としてその日本人を信じるからです。戦争への道、というのは、自らの日本を信じていないからなのではないか、と思うのです。確固として戦争はしないのです。

しかしながら、われらの存立を守るためは、あざむくことによって野望をもつものに、戦争も辞さない、と思わせることが、防衛というものではないかと思うのです。その意味において、誇り得る憲法ともおもわないです。自主独立を守るためには、自衛というものが、その意思を示すための手段であり、普通の国に与えられた、普遍的価値をもつ最高の権利であろうと思います。

いま、国会周辺で行われる市民という名の組織されたデモは、戦争をさせない、というフレーズを波のように掲げていました。あまりにも短絡的であり、無責任きわまる気がします。挑発しているのはどこの国か。その言葉は、対象とする相手を間違えています。悪酒に酔いしれたように、そのフリップを掲げるデモ集団は、わざとねじ曲げた解釈で、大衆を煽動しようとするものであり、自己否定を増殖させるような、ヘイトスピーチにも劣らない悪質だと思います。

安保法案が、明白に違憲であると言えないと同様に、戦争をできる国、というフレーズもまた、行き過ぎた言葉であり、明白にそうとは言えないものがあります。それほどまで、この日本を信じることができないか。それが健全な日本人の姿だろうか。と思うのであります。

 

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2015年6月 4日 (木)

純真さへの背信

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 その言葉なかりせば、何ごとも平穏であったものを、ということはよくあるところ、一つの言葉にであうことが、良くも悪くも、人の一生をも決めてしまうほどに、言葉は魔性をおびることもあるのであります。こどものころに読んだ小川未明の童話「赤いろうそくと人魚」は、純真さへの憧憬の思いを深くし、感銘深いものがありました。その物語の悲しみの結末が問うものは何か、といつまでも心に残るのであります。

人間の住んでいる町は、美しいということだ。人間は、人情があってやさしいと聞いている。そして、かわいそうなものや、頼りないものは、けっしていじめたり、苦しめたりすることはないと聞いている。そう信じた人魚は、わが子が幸せになるように願って、人間の世界に赤ん坊を託すことにしたのであります。赤ん坊の人魚は、ろうそく屋の年より夫婦に拾われ、美しく育ちます。人魚はろうそくに絵を描きます。それは評判で、山の上のお宮さんに参る人々が、喜んで買っていくのでした。

あるとき、香具師がやってきて、その人魚を手にいれようとして、人魚は不吉でよくないことがおきると、言葉巧みに年寄り夫婦をだましたのでした。やさしい娘は、この家から離れて、幾百里も遠い、知らない国へゆくことをおそれました。そして、泣いて、年より夫婦に、わたしは、どんなにでも働きますから、どうぞ売られてゆくことは、許してくださいまし、といいました。けれども、香具師の言葉を信じて、ひとが変わってしまった年より夫婦は聞き入れません。

人魚は鉄格子の檻に入れられて行くのでした。ところが、香具師の船は暴風雨に襲われます。それからというもの、不思議なことに山の上のお宮さんに、赤いろうそくが灯っていることがありました。それを見たものは災難にあい、海におぼれて死んだのであります。幾年もたたず、ふもとの町はなくなったということであります。

ここに、私情にかられた、まことしやかな言葉は、道を外れるのでありまして、ほんとうに罪深いとうことであります。いまの世に、思いあたることが、いくつも浮かんでくるのではありますが、それぞれに永い時の流れに、自ら気づいて変わる、そういうことになるのは、いつとは知れないと思うのであります。

 

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