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2015年9月

2015年9月23日 (水)

誠意ある未来がみえる

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 流れのままに身をゆだねていれば、それもまた心おだやかというもの、けれども行く手に何があるか、よくはみえない。ただ、みんなと同じ道ということに安心感はある。
「メディアはものを壊そうとすることには熱心だけれども、ものを育てようという意識はないんでね」、と言ったのは石原慎太郎さんですが、一つの思い当たる風景のはめ込んでみれば、まさしくその通り。ほんの一秒足らずの映像に、人の心を動かす大きな力があることをメディアは知っている。

どこにもない理想というものに心ひかれて、ひとびとがなるほどそうなのかと思いはじめるのは、自然というものですが、現実にはないことをあるかのように思い描いて、それに触発されれば、感情はしだいに情念へと変化するのも、また人としてやむを得ずか。これはと思う著名人も安保法制に難色をしめします。法案の成立を評価しないが、半数を上まわるという結果です。

はたしてその大勢が、進むべき道であったのか。所詮、戦争ができる国にするなどと、未来のことは、そんなにはっきりと見えるはずもないです。それでも見えてくるのは、この国の未来において、ひとびとが誠意をもって成すであろうことは確かなことだと信じますね。いかに、人間なんて何をしでかすかわからないと言っても、独裁国でもない日本が、戦争をできる国にするという発想はどこからくるのか、おおよそ理解し得ず、信じ難いものです。

それは、国の行く末を案ずるというより、何かの意図をもってする策略に違いない。意を含む異邦人ならさもありなんというところ、いまの世に、自分だけ高みにおいて、いかにも戦争を始めると、自国民を卑下するひとたちの気が知れないのです。この国の人たちはそんなに向こう見ずであるはずがない、と思うのであります。

 

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2015年9月14日 (月)

虚栄という悲しさ

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 ひたひたとよせる文明の波には、抗しがたく、歴史に安住してきた世界の中心という中華民族の壁が、がらがらと崩れてみれば、世界は、はるかに広くさまざまに進んで、実は後進国だったと悟らされる。その痛恨事は、一念発起して目覚めることを得ず、いまだに理屈に合わないことを言わせて世界への反抗へと向かう。

つまり、史実と異なる「抗日戦争と世界反ファシム戦争勝利」という政治的意図をもった宣伝がなされる。中国の習近平国家主席の演説は、抗日戦争の偉大な勝利、戦争史上まれにみる中華民族の壮挙、奴隷のように酷使しようというたくらみを徹底的に粉砕、などなど、大げさで空々しい言葉がならぶ。歴史を都合よくもてあそんで正当性をもたせようとすれば、勢い言葉は、誇大で粗野になり、逆効果になることに気づかない。

でてくる言葉は、逆に自らの歩みを想起させて、平和という言葉もかすんでみえはしない。寛容は、進歩であり、融和であるが、痛恨事をいまもって恨みとするなら、後退であり、排斥でしかない。口では、相互尊重と平和発展こそが、人間の正しい道だなどと、どんな立派なことでも言える。

だますのも力のうちと、もはや古びた孫子の兵法を信じて、なりふりを気にする様子もない。そこには間違っていると知りながら必死になって言わずにはいられない人の虚栄という悲しさが見える。

 

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2015年9月 1日 (火)

新しい感覚への誘い

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 反省とおわびを前面にだせば、和解がなり、関係改善がなるかと言えば、それは否でありましょう。安倍首相の70年談話は、「中韓との関係改善のきっかけにはならない」、と河野洋平氏は批判しますが、はたしてそうでしょうか。

70年談話は、過去の道のりをたどり、自らの進むべき道をしめしたものでした。それは、そのままある程度普遍的なものとして、他の国の進むべき道をも示唆するものでした。戦後レジームからの脱却という言葉を唱えるかぎり、いつまでたってもそこから抜けだすことはできないのと同じように、おわびの言葉を新たにしても、春のラッパが鳴り渡ることはないでありましょう。

かれらが悦に入るための伝家の宝刀と思っているかぎり、それを手放すことはないからです。十年一日のごとくのその言葉は、思考を停止して、ものごとを多様にみる余裕も生まれはしない。侵略とか謝罪とかそのような単純化された言葉にこだわるかぎり、道はひらけるどころか、自分はおろか相手までも、気風はすたれ健全な精神がくずれて行くにちがいないです。

70年は、もう永過ぎる時間が流れたのです。70年談話は、それと意識しなくても、何かが変わりつつある、と心の底に残るものでした。そういう意味で、あたらしい感覚であり、目覚めを誘い、関係改善を促すきっかけにもなるものだったと思います。それなのに河野氏は何をみているのか。民主党岡田代表は、「歴史の事実を直視し、自らの過ちを率直に省みる謙虚な姿勢で、アジアの国々との信頼関係に基づく外交を前に進めていくべき」、といっています。

信頼関係に基づくといっても、信頼は、価値の共有がなければ、いとも簡単にくずされる。そして、歴史の直視というものは、いまやその場に立つことかなわず、歴史の立て直しや、歴史の歪曲と隠蔽をいとわないもの、あるいは見たいもののまぼろしを見るものに、あちらとこちらで、同じ景色をみることは不可能といっていい。だれが直視できると言い得るはずもない。

かれらに迎合するは、それはかれらを軽く見ているに等しい。河野氏や岡田氏が、ほんとうに中国や韓国のことを思うなら、気にいられようとすることをやめて、もっと親身になって、多様なるアジア諸国の新しい流れに気づくよう、新しい言葉をえらぶきだ、と思うのであります。

 

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