« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »

2015年11月

2015年11月23日 (月)

型破りの日本の断面

151122a


 こうと信じるなら、動じることなく主張すべきことは、はっきりと言うことが肝心。本気でぶつかってこそ、互いによい結果を生む。その場が険悪な空気になっても、ひるむことなく立ち向かって行くさまは、清々しい気持ちにさせてくれます。

「何をいまさら、駆け引きのようなゲームをしているんだ!」 と甘利特命担当大臣は、アメリカの通商代表フロマンにやりかえした。無理難題を吹っかけて、議論にすら値しない無茶な要求に、はらわたが煮えくり返った。

 「私は交渉をしにきたので、駆け引きをしにきたのではない」
 「そちらのゲームにこれ以上つき合うつもりはない」 と席を立ってしまった。

虚を衝いた手厳しい論旨にアメリカは、驚いたに違いないです。その出来ごとがあった日より、向き合って交渉を進めるようになってきた。それでも、こちらも主張を通すためには、机をバーンと叩いて「冗談じゃない」「こんなことやっていられるか」 と声を荒げて、怒鳴り合うのもしばしばだった。キャロライン・ケネヂィ駐日大使が参加したときは、顔面蒼白になったこともあったという。

事務方だけの話し合いでは、
 「そんな分からないこと言っていると、甘利が出ますよ,彼がどういう性格かわかっているでしょう」

と切り返すようになり、相手もそれを理解した。これは、TPP交渉について、甘利大臣が「文芸春秋」12月号に書いていることです。新しい秩序の模索とWin・Winの理念に立てば、アメリカといえども自国有利の無理強い出来ようはずはないです。筋を通すことはひと筋縄ではいかない。その困難さと戦った勇気と気骨のある姿勢、それは知らなかった交渉の断面でありました。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年11月16日 (月)

のびやかな風土

1511019a

 

 悠久の歴史の流れによって醸成されてきた文化が異なれば、正しいと信じるものも違ってくる。よって立つ位置もそれぞれに異なってくる。いま世界は広くなってきて、悪は必ずしも悪ならず、善もまた善と定まるはずもないと知れてきた。つまり善も悪も、客観的基準は人それぞれであり、価値の重さが変わりうる。

韓国の国民が納得するように解決せよ、という朴槿恵大統領の言葉も、自分の価値観を他人におしつけて、不遜というか、無知というか、ともに社会に生きる身でありながら、いわれのない日本への断罪をせまる。非融和的な姿はみるにたえないです。中国の国家主席と台湾総統の会談において、融和を演出したと伝えられますが、これも何か心おだやかではいられない気がします。

その台湾は親日国であり、中国も韓国も反日を隠さない。なぜに韓国と台湾はこうも違うのかといわれます。その違いは、台湾は日本が去ったあとにやってきた、国民党との落差があまりにも大きかったためということもあるでしょうが、日本も台湾も彼らと異なるのは、ともに純粋培養によって文化を育ててきたということではないでしょうか。共に島国であり、ながくひとつの共同体の中で生きてきた。あまり汚れを知らない純朴さとでもいいましょうか、そういう人の心への思いやりなどの価値観として合い通じるものがあるのでありましょう。

ブータン王国もしかりです。もともとは秘境といわれるところで、国民性は日本に似ている。なにごとも適度な距離が必要なのかもしれません。そういう外からおびやかされることない世界では、自然とのびやかな風土が生まれる。それが見えてくれば、信はおのずと生じるのでありまして、それが日本と台湾をお互いに引き寄せているのではないかと思います。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年11月12日 (木)

声は大きいけれど

151112a

 何かよくわからないけれども、何かおかしい、と感じることがあります。ひとはことにあたって、いくらかでも、そのことの筋道を考えようとしますから、迷って不思議はないですが、考えてみれば、正否も真偽も、いずれが本物なのか、ということはよくあるところ、そういうときは、気の向くままに自分を信じるしかないです。まあ、どちらかというと私はあやふやな人間でありますから、何かおかしいという程度の答えは出せるのであります。

世の中にはものごとについて、自信満々の人もいるけれど、何も迷うものがないのだろうか。これでよいのか、と心の中で自問自答をくりかえすような悩みはないのだろうか。もし、そういうことが一切なくて、確固たるものがあるとすれば、それは希有なことだと思います。ですがその一面で、それはあるものに対する無感というか、臆病というか、あるいは、外してはいけない何かが欠けている、ということがあるかも知れない、と思うのであります。もしかしたら壊れているのかと思うことも、それは彼我いずれにとっても、とても痛ましいことではあります。

日本の自由な空気のあるところでは、つつしみというものを持たず、不安をあおるような粗雑なことでも平然という人もあって、見ていてただあ然とするのであります。その一方、自己中心的で威圧と強弁がはね返ってくる国にたいしては、秩序の乱れるも正さず、何を言われても、無言で通すひともあるわけであります。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年11月 4日 (水)

人に言わず自分で風穴を

151104a


 みな生きるための道を歩んでいたのではないか。それは、いうに言われぬ辛いこともあったであろう。いわゆる慰安婦の人たちは被害者なのか。確証はどこにあるのだろうか。つらい苦しい思いは、みな懸命に生きようとしていた証しであって、彼女らだけが特別ではなく、中には衣食足りて恵まれていた人もいたという記録もある。苦あれば楽ありで、それなりに報いられるものを手にし、身を捨てても浮かぶ瀬はあった。

だが、それ以上に人それぞれに辛さに絶えて生きていたものは、多くいたはず。そういう時代だった。日本軍は類をみない規律をもっていた。一心に人びとのため、という気高い精神と勇気をもっていた。けれども、明日をも知れぬ辛い身だった。その人たちになぐさめを与えるのが慰安婦という、いわば立派な志しの職をもつ人たちだった。

それなのに、被害者に仕立て上げ、女性たちの尊厳を傷つけているのは、誰あろう朴槿恵大統領自身とそれに同調する人たちだ。つまり人権問題としてつくられた自作自演のへたな戯曲というしかない。朴大統領が、かたくなに慰安婦問題を解決せよ、というのは、保身のために彼女自身の内部から強迫となってでてくる反日という目的のためであって、慰安婦を利用しているに過ぎない。

朴大統領が、「被害者が受け入れ、韓国国民が納得できるように早期に解決しなければならない」と言ったということです。韓国国民が、というなら、それは治めるべきご自身の課題であり、日本に課せられる問題ではない。責任を他になすりつけてやまないのであれば、いつまでたっても自立の気概はみえてこない。と思うのであります。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年10月 | トップページ | 2015年12月 »