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2016年1月

2016年1月29日 (金)

ものを壊して利を得るもの

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 太宰治の「走れメロス」にでてくる王様は、人を信じることができない。それは民衆がそう教えてくれたのだと王様はいう。そして、いつも疑いの目を向けてだれかれとなく刑にかけてきた。不信が不信をよびそれが日常となっていた。芥川龍之介は、世論は常に私刑だ、といった。

ベッキーにまつわる現象は、それを思わせる。いかに報道の自由といってもそのスクープは、不信からはじまる動機が不純。大衆にさらされえじきになった個人は、ヘイトスピーチをはるかにまさり、受忍限度をとうに越えている。個人のみならずCMに関連する企業の損失は、絶大のもがあると予測される。いわば、スクープに端を発して経済の破壊を起こす。

一方、特だねを発したものは、自己の営利目的を果たす。方や莫大な損失を課せられ、方やそのことによって利益を得る。そのような、ひとの自由をも奪う権利が、だれにあるのだろうか。その権利があるのだとしたら、人の道にもとると思う。そのアンフェアは、どうしたものか。便乗によって利益にあずかろうとするものも、それに群がる。

私刑は、また常に娯楽である。というなら、それは人の身勝手というもの、もう、多勢に無勢では、なすすべもない。何食わぬ顔で、弱肉強食をするものがここにある。それが許す社会がある。
メロスは言う。

 「罪のない人を殺して、何が平和だ。」
 「だまれ、下賤の者。」

 王は、さっと顔を挙げて報いた。運命は必然でもある、メロスは、倒れながらも絶体絶命をきりぬける。たちあがれベッキー。

 

 

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2016年1月26日 (火)

すべてを肯定すれば道が拓ける

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 学校で習ったことしか問題に出ない。問題ができないのは、頭が空っぽになっているからじゃないの、習ったよ。といったとき、級友が凍りついたのがわかった。あっ、言ってはいけないことを言ってしまったと気づいた。と、「サワコの朝」で脳科学者の中野信子さんが話していました。記憶なので意味はそんなものだった。字幕をオンにして見ていたので、そのように読めたのだけれど、実際には、You Tube で見ると、「空っぽ」の部分がカットされていた。彼女の転機となったむかしのできごと、なのでカットする必要もないと思うが、第一、凍りついた、という意味が通じない。テレビは変なところに気をつかう。

 

初めて見たけれど、脳内物質が人を動かすという話しは、中々おもしろいです。彼女のIQの高さには、憧憬の念がわきます。誰しも興味は遊ぶことにあって人から学ぶということはむずかしい。大人になってからは、主観というわが身の可愛さと、先入観が先に立って人のいうことを肯定するのは、必ずしも愉快でない。何でもないことでも反動的にいや違う、と言われてしまうこともよくあること。

 

でも、すべてを肯定的に受け入れてみれば、それが現実であり、多少とも正当を含んでいることもわかる。先の見通しも、ある程度ひらけてくる気がします。いまも政治は例によって論議がゆれている。それぞれに、存在感を競っている。しかし、一部の抵抗勢力は、どうみても相手を否定するに熱心で、国民を措いて、闘争のための闘争に走っているような気がします。多様な問題点を単純化思考で押し通そうとしているように見える。

 

そのひとつに、「民主主義を壊そうとしている」、というのがあるけれど、その言葉は、自らに突き刺さることもあって欺瞞に満ちていると思います。君子にあるまじき、戦争法というあやしげで度を超えた言葉をもてあそび、打倒せよ、というのも同じかな。
箱は妙に軽い、中は空っぽかな、いやそうではない、古くて干からびて固まっているのかも知れない。

 

 

 

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2016年1月18日 (月)

歳月の中で

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 冬の陽は遠くから射して影を長く落とし、明と暗がはっきりする景色の中で、陽の暖かさはありがたく、もの影に入れば風の冷たさが身に染み、通りすがりに蝋梅の春の芽吹きを見つけるのもなつかしく春が待たれる。日本人は、世界でいちばん清潔な国民、とトロイを発掘したシュリーマンは、旅行記に書いた。長い時間のあったことが見えたのかもしれない。歳月のなかでひとはみな、寒ければ寒い中にもうつくしさを求める心を養ってきたのだと思う。啄木は、雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき、と詠み、モノトーンの中にほのかな明るさを点じその中に入っていく。日本人は欲心が第一義ではない、と思うのであります。

 

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2016年1月11日 (月)

陽の光の中で

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 なぜだか知らないけれど、心が洗われるということがあります。あれは知覧特攻平和館だった。彼らは純粋で、美しく崇高な精神をもっていた。みな立派は顔だちだった。のこされたものを読むほどに熱いものが込みあげる。もう声もなく外にでて来たけれど、そこは桜並木だった。心の中に清らかなものが流れるような気がした。なぜだかわからない。

天皇陛下は82歳のご高齢、運転免許の更新を受けられたという。自ら愛車を運転されるとは、庶民にとっても愉快で楽しい気がします。なべおさみさんの「やくざと芸能と 私の愛した日本人」という本の中に、こんな話しがでてきます。

縁あって皇居の桜を見る機会があった。そこへテニスに参られる両陛下の車が遠くに見え、行き過ぎると思われたが、ハンドルを切ってこちらに来られ目の前に停まった。美智子皇后様が手回しでゆっくりと窓を開けられ、側近の方に、「何をなさっていらっしゃるの?」、とお聞きになった。「桜を案内しております」、側近の人が答えた。両陛下は身を乗り出すようにこちら目を向けられている。みんな一緒に礼をした。「桜は奥のもご案内してね」、と皇后様がおっしゃいました。「お健やかにお過ごし下さいます様に」、と申し上げるのがやっとだった。「ありがとう」、お二人が同時にお答えになった。そして天皇陛下の運転されるホンダの古い小型車は動きだした。見送りながら、涙がとめどもなく流れるのだった。桜さく春の陽の光の中で、妻も娘もしばらくそうしていた。

 

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2016年1月 7日 (木)

信じる道を進む

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 日本人は、自らの不幸をさらしたり、取り乱すことは、不作法で、恥ずべきことと考える。悲運やみじめさをもって、同情を買おうとは思いもしない。やむなく表れたときは不調法しましたとわびる。そいう美学をもっています。

韓国の慰安婦問題への執着は、普通の感覚なら秘すべき自らの汚点を、駆け引きに利用するという特異の症状をみせています。このほど、日韓合意がなされましたが、産経新聞によると、ほんとうの解決には、「慰安婦は戦時下の貧困による悲劇だという不都合な真実」に両国が向き合うことが不可欠だ、という識者の意見が載っていました。しかしですね、必ずしもそうとは言えない面もあると思うのです。

貧困が真実なのか、悲劇が真実なのか、と思うのです。当時としては、それぞれに精いっぱい生きようとしていたのではないか。貧困というより、それが普通だった。商店などはなかった。職をもとめて本土にやってきた人たちがたくさんいた。そういう時代だった。いわゆる慰安婦とよばれる人たちも、したたかに生きる手段として、得た選択のひとつではなかったのか、つまり、合法であって、そうする方がよい結果を生む、身内においても、それぞれに納得の結果ではなかったのか、と思うのです。

また、これが肝心なのですが、悲劇という言葉の響きは、抗うことのできない悲惨な目に合わされたようなイメージがあります。それは遺された文献をみてもちょっと違うのではないか、と思うのです。詐術にはまってはならぬ。

しかしながら、日本が信じる道を進むことが、結局、韓国にとっても名誉回復になるだろうと思います。それは、長年によるファンタジー指向のあおりで、多分に誤解の上に立った情念にみえるからです。反日という目的のために、もうどうしようもない異なる世界に流されているような気がするからです。救われるべきは、世の潮流をみて、彼ら自身が気づくかどうかにかかっているからです。

 

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2016年1月 3日 (日)

穏やかで味わい深い時間

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 ひとは誰しも美に対してあこがれの感情をもつ。人物であれ風景であれ、そこに見えるものに快いものを感じるとき、雑念はどこかへ行って、ゆったりと穏やかな気分になる。

テレビをみていたらそんな映像が目に入ってきた。BS-TBSの特別企画 「小澤征爾、ドナルド・キーン 音楽、オペラ そして人生」 という再放送の番組だった。司会は壇ふみさん。途中から見たのだけれど、お三人ともとても楽しそうに語り合っていて、目がはなせなくなった。何かに魅せられた人の話しは、どこかわくわくさせるものがある。収録は旧古河庭園の洋館で行われた。大正時代の建物で、落ちついた重厚味がある部屋、背の高い窓の外には緑の木々が見えている。

キーンさんは、マリア・カラスの歌声に魅せられ、心に響いた思い出を語る。小澤さんはオペラを指揮した実感を、その人生感を織りまぜていきいきとして語る。壇ふみさんはオペラへの思いとその博識で、座を盛り上げている。息が合っている。

絵になっているのは、時代のなごりをとどめた背景のたたずまいの中に、二人の男性と壇ふみさんの着物姿の対比が調和して、見るものに焦点が定まるからだろうか。朋友の阿川佐和子さんは壇ふみさんを称して、背の高い女優という。なるほど中々の形になっている。無地の着物に帯の色合いのアクセントが映え、その視覚効果は、やわらかく清々しい。それが会話がはずむに一役買っている気がする。

オペラはわからなくても、長い時間をかけて洗練されてきた芸術は確かなものであることはわかる。それぞれの情熱がよく伝わってくる。いい番組だった。

 

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