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2016年2月

2016年2月26日 (金)

期待を裏切るもの

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 批判することは楽しい。なぜだろうか。上司を批判するのも、政情を批判するのも、また、いまに昔のことを言いたてるのも、どちらかといえば、苦ではなく楽なものです。むしろ爽快なこともある。それがやめられないのは、不平、不満は、声が大きいほどに真に迫って、少なからず自分の弱さを隠すことができる。そして、意のままならぬ世のもてない力の、自らのなぐさめにもなるからでしょうか。

もしかして、他者への批判は、自分の身体が要求しているのかもしれないです。心のバランスをとるために、無意識のうちにはたらく精神衛生上の自己コントロールの摂理かもしれないです。それはたぶん正常に機能している。たしかに自分の信じるものをよりどころとしているけれども、かならずしも正しいとは決まっていない。とるに足りないことかも知れないです。そこがつらいところ。

それを聞かされる身になってみれば、どことなく哀れみに見え、逆に期待を裏切ることにもなってしまう。本屋さんにも批判本がならんでいる。政争にもそれが見える。みんな批判がすきなんだ。批判精神をもつことは、ものごとをよく見きわめて判断することでありましょう。しかしながら、批判はわけのわからない愚痴にも通じますね、分かってはいるんですが・・・。

 

 

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2016年2月23日 (火)

定まるはずのない正しいもの

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 これからも正しいことは、言いつづけなければならない。これは、いつか朝日が、虚偽報道の反省の弁とはうらはらに書いていたことばですが、彼が正しいと信じるものは、その極端から極端にはしる言動から察するに、それは過剰な思いこみと、欠落した認識から生じる誤解かも知れないです。人それぞれに正しいと見える景色は、さまざまであり、しばしば他者のそれとは、相いれない悲しさがあります。それゆえ、自らの力量の差を恥じることもよくあることです。

先に、高校生グループによる安保法制反対のデモという報道がありました。戦争へと進む、という結論にたっての反対です。その結論は、まったく逆というべきものです。大人たちが曲げて意図して下した結論であることが、そこに参加した大学教授の言葉でもわかります。いわく、こんな情けない日本をつくった。といっているのですが、教授の物差しが汚れてひん曲がっていると私は思いますね。

なんだか日本を分断する、かく乱戦法がみえるような気がします。デモの参加者は中年が多かったというのを見ても、高校生を駆りだして利用している、いわば幼稚で卑怯ともいえる構図が見えてしまうのです。

その女子高生は、「間違ったことには、間違いだと言い続けなければいけない。」 と演説したということです。ここにも朝日の思考パターンとおなじものがあるような、そして、物怖じがみえないところに、恨み千年、に通じるあわれさが漂うのです。間違いだとはっきりといえるはずもないものを、戦争になるという前提がまちがっている。それは分をわきまえない未熟というもの、だから、ただおろかに踊らされている感情の産物でしかないと思うのです。はたして彼女、彼らに、日本人としての確かな意識があるのだろうか、と思うのです。

 

 

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2016年2月19日 (金)

未知をもとめるひとみ

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 人間のからだで、唯一透明の細胞でできているのが、眼だと言われています。まさに生命の神秘のメカニズムの不思議です。黒い瞳は、みるものを吸収して反射することがありません。ありのままを映して澄んでいるのです。そう、日本において、ひとみは、清らかな美しいものの代名詞なのです。このほど打ち上げられた天体観測衛星は、「ひとみ」と命名されました。日本的で親しみがもてます。

ひとみは、巨大ブラックホールを観測し、宇宙の成り立ちの謎にせまるのです。そして、そこに何が起きているのか、時空の歪み、背後にある物理法則などを検証・探求するのだ、といわれています。世界の公開天文台として、国際公募観測として運用され、採択された提案によって観測時間が配分される。すべてのデータは、世界共有財産として公開される。解析用ソフトウエアも無償。だれでも多くの研究者によって公開されたデータから、独自の分析がなされ、新発見の論文を作成できるようになる。太陽観測衛星、「ひので」もすでにそのようにして、世界中の研究者によって、成果がだされているということです。

つまり、天体観測衛星は、世界人類の夢と探究心、英知を養って、未知への挑戦をする。文明の進化に貢献するということでしょう。はなしは変わりますが、シナのしていることと、していないことを見れば、彼らが何を目指しているか、わかってくるといわれています。おそらく彼らには、策略をめぐらす面白みもない、直接の実利をともなわない、このような、世にひらかれた天体観測衛星の打ち上げに情熱を注ぐなど、思いつかないことではないかと思います。シナはこのことをどのように見ているのでしょう。この意義に気づくようになれば、すこしは変わってくるのではなか、と思うのですが。

 

 

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2016年2月15日 (月)

完璧ではないはずなのに

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 だれしも人間は完璧ではない、ということになっていて、その不完全であるがために、世の中は面白いことがおきる。いつも何かしら可能なものをもとめて一生けんめいにもなれるということでしょうか。お茶の真髄は、すべて不完全なものを崇拝することにあるといわれます。日々の試みは、優しい心の動きであります。建物においても、わざと未完にしていつまでも、がんばってもらおうという思いが込められこともあります。

ひとは誰でも不完全な身でありながら、時にその不完全な世界の中で行動している現実をわすれているような気がするのですが。さも大切なことのように、他人に完璧をもとめてしまうこともある。何かつまらないものに熱をいれているような、そのような不完全さをみるとき,それはわれにも似て、可愛いものだと思います。

しかし大空から見渡せば、とるに足りないことではないか,とも思えるのですが、メディアは、何の得があるのか、深刻な顔をしてあるいは嘲笑をまじえ、いつも世論をたのんで事件を起こしているような気がするのです。メディアといえども所詮ひとのすること、完璧ではないはずなのに。

 

 

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2016年2月 8日 (月)

大いなる無駄

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 さっぱりとして無心であれば、入ってくる言葉は新鮮で興味をひかれるが、それも時がたてば色あせて、ある日なあんだ、ということに気づくこともある。一時の思いよりも、長い経験の中で学ぶものは、はるかに大きい、それが進歩というものだろう。さまざまな事実というものは、ゆるぎない強みをもっている。だから、あるひとときの間違いは、時とともに正されていく宿命にある。

日教組の教研集会なるものが開催され、反オスプレイ・反原発・自虐史観など、およそ不適切な題材で、印象操作による偏向授業が報告されたという記事があった。まったく進歩しない化石のような日教組、先生という名におごり高ぶる人たちは、いまだに心の平衡感覚を失ったようにみえる。そういう研修報告ばかり聞かされていれば、無心な先生は、あたまがおかしくなってもおかしくない。

又吉直樹さんの芥川賞、「火花」 の主人公は、風変わりな考えかたをする人に出会い、師と仰ぐようになる。その師は、あほんだらというお笑いコンビの名前をもっている。しかし、時がながれて気がついてみれば、その師は、実はほうとうにあほんだらであったことに愕然とするのだった。一時の感情の高まりは、火遊びのようなものという示唆を与えてくれる。

日教組のこの集会のスローガンは、「平和を守り真実をつらぬく民主教育の確立」とうたうが、ただのお飾りに過ぎない。なぜなら、言うこととやっていることが逆さま、欺瞞で背信というしかない。
しかし、生徒たちも大人になれば、正しいことに気づくのは間違いないだろうと思う。いつまでも火遊びをしている日教組は、大いなる無駄なことをしていることに気づいていない。

 

 

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2016年2月 5日 (金)

教養と知性と地下水脈

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 言葉は一瞬にして風にながされていく、いま見たテレビでなんといったのか、数分後にはもう思いだせないことがあります。毒舌俳句先生とよばれる番組のなるほどと思った俳句も、うろ覚えで今日は定かではない。毒舌といわれながらもご本人はいたってまじめです。いいものはいい、悪いものは悪い、のだと意に介さない。当意即妙にしてときに辛辣、ものの見方と感じ方の機微を、ほれここに、とつまにあげてみせる。その意表をつく新鮮さが面白い。

しかしながら凡夫の身には、今日はあれは何だったのか思いだせない。言葉は、すでになかったようにこの身から消えている。世の中は、それでも時に、何か気になる言葉に触れることもある。任期満了で市長を辞した人をさして、「彼は教養と知性がない」、という女性評論家がいました。奥ゆかしさが感じられないという程度のことかもしれませんが、くそばばあと返すようでは負けている。

はっとしてちょっと考えさせられる言葉でした。では教養とは何か、知性とは何か、と自問しても漠として言葉がでてこないのです。教養とは、時間の産物であるなら、長い年月によってぽたりぽたりと溜まってできた地下水脈のようなものでしょうか。知性とは、人に作用して意味をもつものなら、湧水となって出てくる清水のようなものでしょうか。地下水脈があってはじめて湧水となる。清水であればこそ汚れを洗い落とすこともできる。知性は清水かも知れません。それがあればひと息つぐこともできる。命そのものかもしれません。

 

 

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