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2016年2月 8日 (月)

大いなる無駄

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 さっぱりとして無心であれば、入ってくる言葉は新鮮で興味をひかれるが、それも時がたてば色あせて、ある日なあんだ、ということに気づくこともある。一時の思いよりも、長い経験の中で学ぶものは、はるかに大きい、それが進歩というものだろう。さまざまな事実というものは、ゆるぎない強みをもっている。だから、あるひとときの間違いは、時とともに正されていく宿命にある。

日教組の教研集会なるものが開催され、反オスプレイ・反原発・自虐史観など、およそ不適切な題材で、印象操作による偏向授業が報告されたという記事があった。まったく進歩しない化石のような日教組、先生という名におごり高ぶる人たちは、いまだに心の平衡感覚を失ったようにみえる。そういう研修報告ばかり聞かされていれば、無心な先生は、あたまがおかしくなってもおかしくない。

又吉直樹さんの芥川賞、「火花」 の主人公は、風変わりな考えかたをする人に出会い、師と仰ぐようになる。その師は、あほんだらというお笑いコンビの名前をもっている。しかし、時がながれて気がついてみれば、その師は、実はほうとうにあほんだらであったことに愕然とするのだった。一時の感情の高まりは、火遊びのようなものという示唆を与えてくれる。

日教組のこの集会のスローガンは、「平和を守り真実をつらぬく民主教育の確立」とうたうが、ただのお飾りに過ぎない。なぜなら、言うこととやっていることが逆さま、欺瞞で背信というしかない。
しかし、生徒たちも大人になれば、正しいことに気づくのは間違いないだろうと思う。いつまでも火遊びをしている日教組は、大いなる無駄なことをしていることに気づいていない。

 

 

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