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2016年3月

2016年3月28日 (月)

間違いという不遜

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 冬の寒さもやわらぎ、やっと桜の花がさきはじめたけれど、空は陽をさえぎって薄暗く冷たい雨がふるのであります。それでも雲が流れていけば、明るい光が木立に射して影を落とします。澄んだ空の青さは、白く浮かんだ雲の対比によってあざやかになるのでございます。かぜ冷たければ桜もしっかりと咲いていてくれることでありましょう。

人間、無色ではいられない。いつの日にか見たり聞いたり、感性にピッと振れるものあれば、知らず知らずに人それぞれの色に染まっていく。その色は人によって、ばら色(あざやかな赤)であったり、さくら色だったり、それなりの美しさをもっている。その色たちは、時の流れをうつしてその色の自負と矜持を宿し互いにきそい合う。自らの色を大切にするのはよい。

それを基準にして他の人の色をみれば、違ったいろに見えて当然、それを間違っている、といってみたところで、ばら色はばら色であり、さくら色はさくら色なのであります。ひとのことを取り立てて言うほどに、間違っているわけではないのであります。

電波停止もありうるという発言に抗議するジャーナリスト、岸井、田原、鳥越、大谷、青木の各氏が海外特派員協会で会見したようです。その発言の趣旨は、間違っていることは、間違っていると批判しなければならない、というものでありました。

何んという不遜であることか、あくまでも自分に染み込んだ色を押し戻そうとする風が吹くのでありますが、寛容と偏見の無さ、つまり度量をもつものは、元より攻めることを好みませんが、その一方で、何かにつけて敵意をあらわにするものが内にあるのでありまして、誰しも思いのままにしたいという欲望には勝てないのでありましょうが、ある程度、理性より欲望が優先するのは、しかたがないとしても、少なくともこの国に生きて良かったという思いは持ちたいものであります。

さきの大谷氏は、海外特派員の方々に対して、こういうひどい状況にあるのが、日本の言論なんだということを世界に発信していただくことを切に願う、とおっしゃっているのであります。じつに、しのぶれど色に出でにけりであります。ふつうの人が何となくもっている常識と、ジャーナリズムが常識なのか知らねども、その摩擦が弱体化をまねき、第三者の利することのないように望むばかりであります。

 

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2016年3月25日 (金)

そんな簡単に片付けないで

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 世の中うまくわたっていこうと思いますから、まあ、日本人というのは、他者のことを考えますね。顕著なのがノーベル賞でしょうか、あるいは医療のプロヘッショナルもそうだと思いますが、ちょっと海を渡れば、何でも他者のせいにしたい、いやいや、すべて日本が悪い、という、ふしぎな国もあるのであります。では、アメリカはどうかといいますと、いまトランプさんの少しゆがんだような口元をみていますと、何だか他者のことはどうでもいい、自分さえ良ければいいんだ、といっているような気がするのでございます。

自由と民主主義をかかげて世界の先頭に立つのではなかったのか、一転して排外主義に進むのか。一見わかりやすい正論であっても、それが中々に正論になりえないものをかかえているのではないか、と思うのであります。どんな言葉でも、ある意味、間違っていないという一面があるのでしょうが、そういう見方をすれば、それもできるというに過ぎない気がするのでございます。でありますから、そんなに簡単に答えをださないで欲しいなあ、と太平洋の片隅で思っているのであります。

 

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2016年3月20日 (日)

思考のあとさき

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 何気ない会話でも何か言えば、即座に反対のことを言われてしまって、あぜんとして二の句が継げないということもありまして、物言えば唇寒し秋の風、という芭蕉の句を思い出すのであります。いえ、仕事でも家内でもおなじであります。あれはなんだろうと思いますね。議論でも喧嘩でも政治でも所詮、反射神経の有無で決まるんだよ、とだれかが言っておりましたが、不用意にでた言葉に、バーンとやられてしまうこともあるのであります。

思うに、ものを考えるにも二通りあって、後から考えるものと、先に考えるものがあるようです。あとから考えるのは、結果への品定めですね。そして、先に考えるのは、新しいものを生みだすという難しさと楽しさがあるのでございます。後からは、品定めといっても結局、まねごとでありまして、だれでもまあ何とでもいえるということでもありましょう。いってみればうしろばかり見ていることでもありましょうか。それは手の内をさらしている、わかりやすいということでもあります。世の政争もいってみれば、声の大きさは後のほうが優勢であります。

岡本かの子が、愛息の岡本太郎に宛てた手紙があります。

「・・新鮮なしっかりした女性になって長生きをしよう、そしてお前の生きてゆくいろいろな経路も見られる。さらばお前の新鮮な自由な生活のなかで幸福におくらしなさい。 太郎さん    かの子」

 と書き送ってございますが、はっとさせられるのであります。新鮮でしっかりと生きる。とおっしゃっている。ほんとうにもう、新鮮でしっかりとせんかい。言い聞かすのでありますが、中々そうはうまくまいりません私めのよわさであります。

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2016年3月17日 (木)

友か敵かもない

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 友というのは、空間的な距離のことか、感情をともなう心理的距離のことだろうか。唱歌ふるさとには、いかにいます父母、つつがなしや友がき、と唄われています。父も母もそして友も、遠くに離れて、そこに達者で居ればこそ、思いをはせ生きるよすがとなるのでありましょう。友がきという言葉は、いまは使わないですが、どこか床しく、親しみを込めてそう呼ばれるのでありましょう。

中国の全人代における記者会見で、中国の王外相は、日本の指導者は、中国に面倒を与え続けていると批判し、日本は結局のところ中国を、友とするのか、敵とするのか、とのべたということです。

友というのは、個人のお互いにそなわった品性を信頼するが上に成り立つのであって、国家間ではそうはいかない。さらにいえば、われらは日常、あからさまに敵という言葉は、つかわない。

尖閣は、日本領とする確かなシナの公文書(海難救助の感謝状)もある。シナ発行の古地図もある。歴史ねつ造でことあるごとに、敵対する言葉を使いながら、友か、敵か、もないものだ。その言葉自体、品位のかけらもないおどしの文句でしかない。それでひるむと思ったらそれは間違いだ。

友だちに入れて欲しいと思うなら、入れてあげてもいいけどね。友達にもいろいろあるよ。いい友達もある。悪い友だちもあるよ。どちらの方に入れて欲しいの?・・・。

 

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2016年3月13日 (日)

生きている言葉

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 ことばは知らず知らずに生きる力をあたえる。伊豆の山々月あわく灯りにむせぶ湯のけむり、と、かつて親しまれた歌がありました。遠い月とはるかに霞む山々、大きな風景に思いを託しています。伊豆の山々月あわく・・・と、なんと美しい言葉でしょうか。これを生みだした先人に感謝です。ことばの美しさが、身に染みて人々をなぐさめる。心もちを洗い清めていく気がします。

先ごろ演歌議連が発足したというニュースがありました。私はいいことだと思いますね。いつの日もにっぽんの原風景を思いうかべれば、心静かな気持ちになれる。言葉は大切にしたいものです。○ベ政治を許さない、とか、○争法案などと、そんな言葉がどうしてでてくるのか、不思議な時代です。ひたひたと寄せてくる波にけがされたか、その罪深さに気づかないエリートが、大衆を飲み込んで責任も勇気も失って崩壊していくさまが見えるような気がします。

それが蔓延して、司法でさえも、自らの欲望をおさえがたく刹那的にはしる。それに喝采を送るものもある。保育園を落ちた、それもひとつの与えられた試練であろうと思うしかない。世の中にはいくらも辛いことがおきる。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、耐えてこその人生、それによって自ら立って強くもなれるはずを、やっぱり、日本人としての確かな意識があるのだろうか、と思わずにはいられません。

ことばは大切にしたいです。美空ひばりの歌が浮かんできます。雨潸々とこの身に落ちてわずかばかりの運の悪さを恨んだりして人は哀しい哀しいものですねそれでも過去たちは優しくまつ毛に憩う・・・。ことばは人の心のなかに息づいている。

 

 

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2016年3月 9日 (水)

疑問をはさむ余地あり

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 思いの中で過ぎ去った事実は、日に日に薄れてゆく。多様なものがいつの間にか、欲するものの都合のいいように、一様な概念にすり替えられていくことがある。それはおそらく真理の道を外すことになるのではないだろうか。客観性と多様な事実を重視し、ものごとを解きほぐしていく考えが、人々に良い作用を及ぼす。

それが知性というものだとすれば、このたびの、国連の女子差別撤廃委員会が、いわゆる慰安婦のことで、日本に発した勧告は、知性というものが感じられない。まったく、同委員会が欲するままに、国連の威をかりて、国連の名において、国連自らが、日本全体への人権侵害をしかけているように、私には感じられる。迷惑このうえなくわれら精神に突き刺さる。

その勧告は、軍隊による深刻な人権侵害であり被害者に影響を与え続けている。したがって、疑問をはさむ余地なく賠償をせよ。教科書に記載せよ。そして、次回の定期報告においてその結果を報告せよ。と高圧的に言う。客観性はどこにある。被害者、人権侵害、と断定するが、ほんとうに被害者なのか、人権侵害があるのか。

人権侵害という言葉を頻繁に使って、そう思い込ませるプロパガンダを、国策としてきたのはだれか。つまり、同胞である慰安婦の人たちを貶めているのは、そのプロパガンダそのものではなかったか。

国連がそれに与するのであれば、信も威厳も地に落ちたと思う。もちろん国連に歴史を裁く権利はないと自覚し、「被害者に影響を与え続けている」、という言葉で現在の問題だ、と正当化している。なんという自分勝手なことだろうか。

 

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2016年3月 6日 (日)

情報の汚染

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 先のことを予測することは余程むずかしい。人が推定できる範囲はごく狭い。正しいという思い込みは往々にして狭量だったりする。そこがつけめ、策を弄するものは、相手を油断させて勝利をえることをねらう。孫子の兵法は、紀元前500年ごろのこと。シナはいまもこの書に心酔し、忠実に実行する。

シナはアメリカとゲームをしている。とおどろくべきことが、最近出されたマイケル・ピルズベリー著の「china 2049」 という本に書かれている。その中につぎのような記述がある。

 「アメリカ人は、このゲームのルールをまったく知らない。このゲームに負けつつあることを知らない。何しろこのゲームが始まったことすら知らない。」

つまり、アメリカは、ずっと、シナが将来、世界の平和を保つ力になるだろうと信じて、レーザーや宇宙工学などあらゆる最新のテクノロジーを支援し続けてきた。しかし、シナは、中華民族だけの夢を見て、古い時代のままに真っ直ぐに進んでいたのだった。アメリカでさえ、その欺きに気づかず、正しいという思いは、間違だったと、いまやっと気づいたのだった。シナの戦略は、覇者を倒すために自分の意志を隠すことを重視するのだった。恐るべきは、現在進行形では、決して見破ることのできないスマイルな長期戦略だった。

さきごろ、高市総務相の電波停止もありうるという発言について、ジャーナリスト有志が、抗議する声明を発表した。その人たちが、絶対に正しいという思いが、他人に影響を及ぼさないなら、それはそれでいい。しかし、自己懐疑というものが一切なく、その確信が誤解というものであり、それを世に押し通そうとするなら、それは品質の悪い情報というべきであり、情報の汚染が広がるということもある。出演料を得るプロであるなら、両論を論ずることはた易いはず。なのに、偏向によって国民を惑わすなら、迷惑このうえない結果をまねく。

かれら自身も、発言が偏向していることは、自覚している。なぜなら、その声明文には、偏向していないという弁明は一行もない。ならば、法に素直になられよ。声明にあるのは、表現の自由という都合いい曲解と、政権への罵倒という論点のすりかえしかみえない。そうならば、彼らが国民の知る権利に資すると言っているのも、もはやたちの悪い欺瞞ではなかろうか。真実の視界をさまたげられてはかなわないですが、いまはもう、そんなに騙される人も少なくなってきたのではないだろうかと思うのでした。

 

 

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2016年3月 2日 (水)

希望という荷物

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 あたりがひらけ、木の間隠れに海が見える。どこかなつかしいものに出合ったような心ひかれる気がする。その遠い視線のむこうに安らぎを感じる。三浦半島観音崎、空はひろく、海は青き水をたたえてはるかに水平をなしている。 なんと落ちついて静かなることか。 ここは東京湾の出入り口、遠き国に旅立つのであろうか、音もなくゆく白い船影のゆくえはしらない。それぞれに、たぶん希望という荷物をはこんでいるにちがいない。一つきてまた一つと大型船がゆっくりと行き交う。景色は明るく静まりかえっているが、見ればみなここは、期待を背負って活気があふれている気がするのでした。

 

 

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