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2016年4月14日 (木)

さっぱりとすれば爽快に

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 とかく、知も理も意のままならず、情は勝手しだい。そこで情が人の意を強くしているなら、情は活力の源泉ということもできましょうか。そういう意味で、人は情によって生きている、ともいえると思います。情が納得しなければ、受け入れがたいこともあるでしょう。しかしそこは、こだわりを捨ててさっぱりとすれば、気分は爽快になれるはず。あっさりとこだわりをなくするのが、民主主義というものではないでしょうか。

「放送法遵守を求める視聴者の会」を、まっとうな言論活動ではない、と朝日の社説はいっています。いま、選挙に敗れた少数勢力が、情、抑えがたくマスメディアを乗っ取った感があります。なんとなくですが、テレビをそういう人たちにとられてしまっては、アンフェアだな、という情が残ります。

もとより成熟した社会では、情が理より優先することはありあえないですが、情は、人がもつ尊いものであるという考えに立つなら、いくら正しいものであっても、理が情を越えることができない、ということも現実かも知れません。ここは、いつとも知れませんが、ただ成熟を待つしかないのかも知れません。

このかたくなさの不可思議は、打たれ弱いこの国、この浮世の人間のさがといってしまえば、それまでのこと、何も思いつめるまでのこともないのですが、何にしても社会というものはパワーなくしては、生きてはいけないです。

それにしても、つき動かしているものは、外への怖じけなのか、それとも内への不信のゆえか、それは、確かなものと、あるゆるものへの自由さがあってのことか、世界への責任を自覚し期待にこたえるものか、好悪をはなれて筋が通っているのか、それもこれも、過去のしがらみ、呪縛の解けないためならば、そろそろ覚めよ。日本人であるなら、もっとあっさりとできないものか。

 

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