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2016年4月

2016年4月29日 (金)

失った良心の蘇生

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 良心とは、他者を思うことである。自己の存在は、他者の存在によって成りたち、その良心は善を知り、道徳意識を養って、ひとの人格に影響するもの、普段それと意識することなく、心の深いところにそれはあって、あまり表にはでてこない。打算は、わが身のかわいさにあり、変化する世のかかわりの中で、スピードが必要となる。それゆえに、こころのごく浅いところにある。良心を失って、打算に走れば、ひとは形ばかりの中身のないむなしいものとなるのではないでしょうか。

オバマ大統領が、広島を訪問することになれば、それは人類への平和への願いを共有することの表明であり、そのことに異をはさむ余地はないように思います。けれども、なにやら打算に走って反対するものがあるようです。韓国のメディアは、オバマ大統領の広島訪問によって、日本が被害者のように見られはしないか、と反対しているということですが、どこか動機が不純な気がします。

不思議な発想をするものだと思いますね。われらは、憐れみを乞うように、被害者であることで、優位に立とうなど、思いもしない。何か時代おくれの感じがするのです。韓国は、アジアでいち早く夜明けを迎えたのではなかったか、時代の変わり様を目にすれば自ずと、価値のちがいに気づくはずを、いつまでも古い殻からでられない。世界の多くの人たちとのかかわりの中にあって、おなじ価値観を共有している、という自覚があるのだろうか。

もし、そういう意識がないのであれば、その発想の屈折したような心理は、どこからくるのだろうか。ひとは良心に基づいて行動すれば、何ごとも進歩していけると思うのですが、おそらく、ながく厳しい風土の中で良心というものを抑えてきたがために退化したのかも知れないと思うのです。その蘇生は容易なことではないでしょうが、いつか自ら気づき、その努力の如何にかかっているように思うのでございます。

 

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2016年4月25日 (月)

正しいと信じるなら堂々と

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 誰しも自分の立場の雲行きがあやしくなれば、強い味方は欲しいもの、なんとか加勢をたのみたい気持ちはわかります。ちょっと前まで、言いつけ外交とか、おばさん外交といわれたものがありました。あれは、日本人の根がまじめというか、真っすぐを良しとする性に合わず、世間の憐れみとひんしゅくを買ったものでした。それに感染したのかどうか、そういうものがこの国にも息づいていたのか、いま一部、ジャーナリストの中に、そのようなものがでてきたような気がするのです。

国連人権理事会の「表現の自由」を担当する特別報告者のデビット・ケイ氏は、日本のジャーナリストに取材して、『政府のことについては、非常に独立性をもって報道することがむずかしい』、と聞いた、として、重要な点は、多くのジャーナリストが、放送や出版などのそれ相当の立場にあるにもかかわらず、『まずは匿名でお願いします』、とおっしゃるのが、異例なことだと考えます、とのべられています。

正しいと信じるなら堂々としていればいいものを、一様に匿名でお願いします、というのは、よくわかりませんが、どうやら、国連の担当者ということで、的外れなおじさん外交をしている感じがします。高市総務相の発言に端を発するものは、前政権にもあったことを思えば、とるに足りない、という気がするからです。

表現の自由などの諸権利について、つねに公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ、という憲法に照らせば、国連の事情聴取にたいして匿名とすることは、責任感の無さ、根拠薄弱なさまがでてきた感じがします。でも、言いたいことがあるなら、言えばいい。言わなければ分からないから。ただ、外に対し、愚痴めいたことをこぼすのは、大人げないのではないか、と思うのでございます。

 

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2016年4月20日 (水)

なぐさめ、はげまされて

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 脈々と築いてきた一切のものが、崩れていく、この大地のメカニズムのすさまじさは、茫然として、なすすべもなく、涙も悲しみの言葉さえ失ってしまう。それでも、それに立ち向かっていく人たちの労苦の姿を見つつ、私たちは決して無力ではない。幾多の困難を切り拓いていくのが、のこされたものの使命であるはず。海外の多くの首脳からお悔やみや、お見舞いのメッセージがとどいたという。その中で、台湾からのものは、『熊本頑張れ。日本頑張れ。』 とあり、安倍首相は、日本の古い友人である台湾からのメッセージにはとりわけ励まされた、とフェイスブックにつづったと新聞が伝えています。

熊本頑張れ。日本頑張れ。簡潔でありながら、親しみのこもった言葉で、困難にめげず我慢してやりぬけよ、と聞こえてくるような。励ましの言葉はありがたい。それはわれらの心に刻まれ、必ずや力となることでしょう。あまりのことに精神が萎えるのは、経験したひとしか分かりはしないと思う。けれども、ここはひとびとの熱き血潮に期待したいと思います。

 

 

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2016年4月17日 (日)

明日という日を

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 誰しも人生のよろこびは、ひとの存在に負うところがおおきい、おそらく孤独のなかではありえない。日々、情はひとの心に通うものであり、ひとの存在そのものが、そこにあるべきものとして期待されるとき、情はひとの心に生きる力をあたえる。それほどにひとの存在は、たとえ見ず知らずであっても、ひとしく尊いことには変わりないです。

何のいたずらか、不意に襲われた熊本の地震で多くのひとが亡くなられました。ただただ、心いたむばかりです。きょうは相模川の河原の林のなかで、道すがらうぐいすがしきりに鳴いていました。やがて南から、つばめもやってくる。これから木々の緑も増すことでしょう。それは変わりないことでしょうが、だれにもそういう明日という日が約束されていたはずなのに、運命のいたずらは、ときに言いようもない恐怖と難儀を与える。かろうじて難を逃れ得たひとびとの上にもまだつづくらし、突然に、それぞれに思わぬ道をあゆむことを、余儀なくされる哀しみの涙はいかばかりか。罹災された方々のことに、思いをいたすところ余りあるものがあります。日夜、懸命に救助・支援活動されている方々、ありがとうございます。なんとか被害を少なく、そして元の日々にもどられますよう願うばかりです。

 

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2016年4月14日 (木)

さっぱりとすれば爽快に

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 とかく、知も理も意のままならず、情は勝手しだい。そこで情が人の意を強くしているなら、情は活力の源泉ということもできましょうか。そういう意味で、人は情によって生きている、ともいえると思います。情が納得しなければ、受け入れがたいこともあるでしょう。しかしそこは、こだわりを捨ててさっぱりとすれば、気分は爽快になれるはず。あっさりとこだわりをなくするのが、民主主義というものではないでしょうか。

「放送法遵守を求める視聴者の会」を、まっとうな言論活動ではない、と朝日の社説はいっています。いま、選挙に敗れた少数勢力が、情、抑えがたくマスメディアを乗っ取った感があります。なんとなくですが、テレビをそういう人たちにとられてしまっては、アンフェアだな、という情が残ります。

もとより成熟した社会では、情が理より優先することはありあえないですが、情は、人がもつ尊いものであるという考えに立つなら、いくら正しいものであっても、理が情を越えることができない、ということも現実かも知れません。ここは、いつとも知れませんが、ただ成熟を待つしかないのかも知れません。

このかたくなさの不可思議は、打たれ弱いこの国、この浮世の人間のさがといってしまえば、それまでのこと、何も思いつめるまでのこともないのですが、何にしても社会というものはパワーなくしては、生きてはいけないです。

それにしても、つき動かしているものは、外への怖じけなのか、それとも内への不信のゆえか、それは、確かなものと、あるゆるものへの自由さがあってのことか、世界への責任を自覚し期待にこたえるものか、好悪をはなれて筋が通っているのか、それもこれも、過去のしがらみ、呪縛の解けないためならば、そろそろ覚めよ。日本人であるなら、もっとあっさりとできないものか。

 

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2016年4月10日 (日)

使命という名の偽善

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 気分が明るくなれば、あらゆることがうまく行くようになる。それには、信頼に足るリーダーシップが大きな力となることは確かだと思います。リーダーの如何によって一人一人に自信がつき、よい結果生まれる。リーダーシップが乱れれば何ごともうまくはいかない。この国のリーダーシップは、政治にあるのではないだろうか、うまく行っているかどうかは別にしても、それは確かな気がします。

けれども、ともすればマスメディアにあるのかように錯覚することがあります。「放送法遵守を求める視聴者の会」が、TBSテレビの報道を放送法違反とする声明を出したことに対して、TBSテレビは、反論の声明をだしました。その中で、「権力に行き過ぎがないかをチェックする、という報道機関の使命を認識し、公平・公正な番組作りを行っております。」といっています。

ですが、報道機関としての使命は、その名の通り、情報の報道を行うことに、つきると思うのでありますが、TBSテレビさんは、そうではなくて、まるで自社が上に立つかのように、権力に行き過ぎがないか、チェックするのが使命だとおっしゃっているのです。視聴者の声を真摯に受け止めるのかと思いきや、逆に、視聴者の会の声は、切って捨てられたのであります。その自信ありげな言動はどこからくるのだろうか。驕るもの久しからずのたとえ、衰退がはじまっている予感がするのです。

選良によってなされる、この国の政治と、尊大なこのマスメディアと、いずれがまともであるのか。行き過ぎをチェックするとしながら、予測に立って善悪を正そうとする判断、そういうものが一体、可能なのだろうか。営利でなりたつテレビ局の番組制作にたずさわる人たちに、はたして、それができるのだろうか、と思うのです。

「表現の自由、ひいては民主主義に対する重大な挑戦であり、看過できない」と、TBSテレビさんはおっしゃる。そのように言ってしまえば、何でも通ってしまう。それもまた強権に等しく、彼らがいう圧力も、その強権も紙一重となり、やいばは自らにも向かうはずであります。表現の自由といっても、みんなの福祉のために利用する責任を負うのであって、みだりに濫用はならぬ、と定められているのであります。

彼らがいずれ、思惑どうりには行かなかったと気づく時がくるなら、それは学習というものでありましょう。予期しなかった学習は、その人にとって必用であったかも知れないですが、必ずしもみんなが必用とするものでもなかったはず。国の行く末にかかわることについて、その任にあらざるものが独善的に宣伝をしようとするなら、損失を生むこともなきにしもあらず。と思うのでございます。

 

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2016年4月 3日 (日)

今に生きている友好の証し

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 さくらは雄大にして優美、何よりも他の花と違うところは、しおれることがありません。いま不意に一陣の風くれば、花のさかりに散り散りに枝からはなれ宙を舞うのです。見るものの惜しむこころも知らぬげに、一瞬にして高く低く春の風に流される。ひらひらと散ってまで地面を明くるく敷きつめる。千変万化の見ごとさ、人はその風情の潔さにこころひかれるのでございましょう。

エリザ・R・シドモアは日本にやってきて、さくらを米国人に見せたいと思い、それが後にポトマックの桜としてかなったのでした。シドモアは、在横浜米国総領事代理の妹です。明治17年はじめて横浜の土を踏んだのでした。そしてこよなく日本を好きになった。その人となりは、勲六等宝冠章の外務省の上奏文に残されております。

広く東亜諸国を漫遊し、よくその人情風俗に通じ、本邦支那および印度等に関する著書数種を出し、そのほか時々新聞雑誌等に寄稿して、東亜諸国に事情特に本邦の文明風俗を英米の読書社会に紹介せること少なからず、殊に米国に於いては有数なる日本通の一人として承認せらるのみならず、平素誠心誠意日本の良友を以て自ら任じ、日露戦役中の如きは、帝国政府の政策または帝国民の声価を損なうが如き記事の新聞紙上等に表するに於いては、自ら進みて之が弁護の労を執り、社交上相当の地位を有するが故に其の交際上の関係を利用して、大いに本邦の為の利益を与えるたること少なからず、其の功労顕著なるを以て・・・。

と、これは明治41年のことでありました。兄のジョージ・H・シドモアは、ヨット25隻を有するヨットクラブの長であり、銚子、館山、小笠原、下田、伊勢沿岸まで寄港の許可願いを外務省にだしています。かれの艇の名前は、ヤマトダマシイ号と記録にあります。英語名ではなく和名で名づけたところに、この国への造詣の深さが偲ばれるのでございます。

青い海原をゆく白い帆、男たちが懸命に操船している、いくつかの艇が互いに競い合う、静かで生気みなぎる時間が流れていた。遠くそんなことが目に浮かんでくるのでございます。シドモアは、いま母と兄とともに横浜の外人墓地に眠る。その傍らには、ワシントンから里帰りした桜が咲いている。その名はシドモア桜としていまに生きているのであります。

 

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