« 今に生きている友好の証し | トップページ | さっぱりとすれば爽快に »

2016年4月10日 (日)

使命という名の偽善

160410a


 気分が明るくなれば、あらゆることがうまく行くようになる。それには、信頼に足るリーダーシップが大きな力となることは確かだと思います。リーダーの如何によって一人一人に自信がつき、よい結果生まれる。リーダーシップが乱れれば何ごともうまくはいかない。この国のリーダーシップは、政治にあるのではないだろうか、うまく行っているかどうかは別にしても、それは確かな気がします。

けれども、ともすればマスメディアにあるのかように錯覚することがあります。「放送法遵守を求める視聴者の会」が、TBSテレビの報道を放送法違反とする声明を出したことに対して、TBSテレビは、反論の声明をだしました。その中で、「権力に行き過ぎがないかをチェックする、という報道機関の使命を認識し、公平・公正な番組作りを行っております。」といっています。

ですが、報道機関としての使命は、その名の通り、情報の報道を行うことに、つきると思うのでありますが、TBSテレビさんは、そうではなくて、まるで自社が上に立つかのように、権力に行き過ぎがないか、チェックするのが使命だとおっしゃっているのです。視聴者の声を真摯に受け止めるのかと思いきや、逆に、視聴者の会の声は、切って捨てられたのであります。その自信ありげな言動はどこからくるのだろうか。驕るもの久しからずのたとえ、衰退がはじまっている予感がするのです。

選良によってなされる、この国の政治と、尊大なこのマスメディアと、いずれがまともであるのか。行き過ぎをチェックするとしながら、予測に立って善悪を正そうとする判断、そういうものが一体、可能なのだろうか。営利でなりたつテレビ局の番組制作にたずさわる人たちに、はたして、それができるのだろうか、と思うのです。

「表現の自由、ひいては民主主義に対する重大な挑戦であり、看過できない」と、TBSテレビさんはおっしゃる。そのように言ってしまえば、何でも通ってしまう。それもまた強権に等しく、彼らがいう圧力も、その強権も紙一重となり、やいばは自らにも向かうはずであります。表現の自由といっても、みんなの福祉のために利用する責任を負うのであって、みだりに濫用はならぬ、と定められているのであります。

彼らがいずれ、思惑どうりには行かなかったと気づく時がくるなら、それは学習というものでありましょう。予期しなかった学習は、その人にとって必用であったかも知れないですが、必ずしもみんなが必用とするものでもなかったはず。国の行く末にかかわることについて、その任にあらざるものが独善的に宣伝をしようとするなら、損失を生むこともなきにしもあらず。と思うのでございます。

 

|

« 今に生きている友好の証し | トップページ | さっぱりとすれば爽快に »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/126209/63467158

この記事へのトラックバック一覧です: 使命という名の偽善:

« 今に生きている友好の証し | トップページ | さっぱりとすれば爽快に »